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第190話

 煜瑾(いくきん)が選んだネクタイで自分のクリニックへ出勤した文維(ぶんい)は、きっちりと午前のカウンセリング2件を済ませた。  患者たちも満足し、おかげで午後の予約時間までゆっくりと昼休みを取れることになった文維は、さっそく煜瑾に電話をする。 「煜瑾?今からそちらへ帰ります。何か必要なものがあれば、買って行きますが?」  朝から唐家の家政婦である胡娘(こじょう)さんが派遣され、今日の煜瑾は家事のレッスンを受けることになっている。もちろん、やり手の茅執事の発案だろうが、それでも、それで「至宝」を失った唐家が安心するのなら致し方ないと文維は思う。  本格的な家事の経験など初めてのことで、煜瑾はむしろ楽しみにしていたようだが、実際、文維はさほど期待はしないようにしていた。  何と言っても「唐家の至宝」「深窓の王子」たる唐煜瑾だ。家事などという生活臭のする作業がそう簡単にこなせるとは思わなかった。  だからと言って、煜瑾の能力を低く考えている文維ではない。ただ、長い目で見守る必要があると知っているだけだ。 「ご心配はいりませんよ、文維。先ほど胡娘も帰りましたが、昼食の用意もちゃんとできています」  嬉しそうな煜瑾の声に、どれほど胡娘の手を借りたか分からないが、かなり自信を持ったようだ。 「楽しみです。あと、10分くらいで着くので待っていて下さいね」 「はい」  昨日の午後からスタートしたばかりの「ハネムーン」だが、すでに「新婚生活」の様相がある。それが嬉しくもくすぐったく、頬が緩みっぱなしの文維だった。 「文維~!」  静安公園の西側にある文維のクリニックから、急ぎ足で東側の嘉里公寓(ケリー・マンション)に向かっていた文維は、後方から名前を呼ばれて、驚いて振り返った。 「え?な、何?」  後ろから走って追いかけてきたのは、従弟(いとこ)羽小敏(う・しょうびん)だった。 「今、クリニックに行ったら、張春梅(ちょう・しゅんばい)さんが、文維はもう昼休みに出たっていうから、急いで追いかけて来たんだ~」  はあはあと息を弾ませ、文維の隣に追いついた小敏は楽しそうな顔で言った。 「で、昨日は煜瑾の部屋に泊まったんだって?」  さっそくニヤニヤしながら訊いて来る小敏に、文維は眉を寄せる。 「まあね」  サラリとかわしたつもりの文維だが、好奇心旺盛な小敏のキラキラした眼差しからは逃れきれそうにない。  だが、案外あっけなく小敏は追及を諦めた。 「ま、その幸せそうな顔を見たら、答えは分かるけどね」  含みのある笑い方をする小敏をチラリと見て、文維もまんざらではない笑顔を浮かべた。 「で、昼休みに煜瑾のトコへ戻るの?じゃあ、邪魔できないな~」 「別に構いませんよ。今夜も一緒に過ごす約束ですしね」 「お!まさかの包文維からのお惚気(ノロケ)ですか!」  プレイボーイの包文維が、おそらくは初めて本気になった相手が唐煜瑾なのだ。これまで経験したことが無いような幸福感に包まれているのが、文維本人だけでなく、いつも近くに居た小敏にもよく分かる。 「ボクにとっても、大事な煜瑾だよ。ずっと、幸せでいてね」 「ありがとう、小敏」  2人は互いに深い思いやりを抱いた笑顔を交わした。

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