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第197話

 ある日曜日の午前中。  煜瑾(いくきん)文維(ぶんい)は、宝山(ほうざん)地区の(とう)家の邸宅を訪れた。 「煜瑾さま!」「お帰りなさいませ、煜瑾さま! 「煜瑾さま、お帰りなさい」  煜瑾が玄関を入る前から、使用人たちが集まって来る。思いやり深く、慈悲深い天使のような煜瑾が、この唐家に居るのと居ないのでは、まるで別世界なのだ。久しぶりの天使の降臨に、使用人たちは歓迎していた。 「包文維先生、いらっしゃいませ。煜瑾坊ちゃま、おかえりなさいませ」  はしゃいでいた使用人たちを諫めるような冷ややかな眼差しで、(ぼう)執事が現れた。 「ごきげんよう、茅さん」「こんにちは」  相変わらず煜瑾は屈託なく微笑み、文維は言葉少なく礼をした。  今日は、煜瑾が兄の会社を退職し、独立してインテリアコーディネートの仕事を始める報告をするために、煜瑾は実家に帰宅したのだ。もちろん、すでに事情は兄・唐煜瓔(とう・いくえい)には電話で話してある。  けれど、兄・煜瓔は煜瑾に顔を見て報告するよう、文維と一緒にランチに招待したのだ。 「お兄さま…」  この家を出てから、煜瑾は席を置いていた兄の会社には出社していない。最初から煜瑾は独立することしか考えていなかったからだ。  煜瑾は、電話で何度か話はしたのだが、こうしてこの屋敷で兄の顔を見て話すのは久しぶりの事だった。  この兄の傍に居なければ生きてはいけないと思っていた煜瑾だった。それが、今ではこうして1人で立って生きていける。煜瑾自身、そんな自分が誇らしかったし、兄にもそう思って欲しかった。 「ご無沙汰しております」  文維が挨拶をすると、唐煜瓔は少し苦い顔をした。しかし、すぐにビジネス用の上品な笑みを浮かべ会釈を返した。 「今日は、『家族』だけの気さくなランチだ。天気も良いし、リビングに続くサンルームにテーブルを用意させたよ」  兄・煜瓔の言葉に、煜瑾は頬を紅潮させるほど嬉しそうにした。  今日は唐煜瓔、煜瑾そして包文維の3人だけの昼食のはずだ。それを兄が「家族」と呼んでくれたのが、煜瑾には信じられないほど感激した。  それに、リビングに続く、明るい日差しの届くサンルームは、幼い頃から煜瑾のお気に入りの場所だった。寒い冬でも陽が射し、明るく、リビングのセントラルヒーティングと、サンルームの床暖房で温かく、まるで「唐家の至宝」を大切に育てるための温室のような居心地のいい場所だった。物心つく頃にはリビングで寛ぐ両親に見守られ、両親を喪ってからは兄に見守られながら、この場所で絵本を読んだり、絵を描いたりと、大人しく過ごしていた煜瑾だった。  そんな、幼少期からの思い出が詰まった温かで居心地の良い場所で、最愛の人を「家族」と認められ、仲良く一緒に食事ができるとは、煜瑾にとっては夢のように幸せなことだった。

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