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第199話

煜瑾(いくきん)?」  クリニックを終え、愛しい煜瑾の待つレジデンスに戻って来た文維(ぶんい)は、いつものように迎えに出て来ない煜瑾を不思議に思った。  今日は週末の金曜日で、明日のクリニックの予約がキャンセルとなったので、今夜は2人で、外で食事をする約束だった。  最近は仕事も忙しそうな煜瑾が、またソファで寝てしまったのではないかと心配して文維がリビングに向かうと、煜瑾は窓に張り付くようにして夜空を見上げていた。 「どうしました?」  不思議に思って文維が声を掛けると、ハッとしたように煜瑾は振り返った。 「あ、おかえりなさい、文維。お出迎えしなくて、ゴメンなさい」 「いいえ。そんなことはいいのです…」  柔和な微笑みを浮かべ、文維は煜瑾の隣に並んだ。 「何か、ありましたか?」  新しく仕事を初めて、煜瑾には慣れないことも多いだろう。どうしていいか分からず、思い悩むこともあるはずだった。それらがどんなに些細なことであったとしても、文維は打ち明けて、相談して欲しいと思っている。 「いえ…。ほら、月があまりにも綺麗だったので…」  煜瑾に言われて初めて、文維は窓の外に輝く満月に気が付いた。 「ああ、本当に綺麗ですね。満月というのは、これほどに明るいのだということを忘れていました」  上海のように眠らない大都市では、真夜中といえども人工の光でどこも明るい。地上から空を見上げても、月や星など滅多に見えない。  それでも、こうやって高層階のレジデンスの部屋からは、月が近く見えた。 「ねえ、文維?」 「何ですか?」  気が付くと、2人は自然に寄り添い、文維は煜瑾の肩を抱き、煜瑾は文維の胸に顔を寄せていた。 「歌を歌って下さい」 「え?歌?」  意外な言葉に、文維は腕の中の煜瑾の顔を見る。 「学生時代、みんなでカラオケに行ったことがあったでしょう?あの時の文維の声がとても素敵で、忘れられません」  そう言えば、そんなことがあった。  高校時代、試験が終わった最終日に、打ち上げと称して、いつもの4人で徐家匯へ繰り出し、カラオケボックスで思い切り騒いだ。青春時代を心から楽しんだひと時だった。 「ん~、私は、煜瑾の歌声の方が魅力的だと思いますけどね」  思わぬことを言われて、煜瑾は目を丸くした。みんなでカラオケへ行った時も、煜瑾は恥ずかしいのと、歌えるような歌が無かったので、黙ってニコニコしていただけだったのに。 「気が付いていない?煜瑾は、時々1人で歌を歌っているでしょう?」 「え?」  指摘されるまで、全く自覚の無かった煜瑾はビックリして目を丸くする。 「食事の仕度や後片付けの時、お風呂に入っている時やボンヤリしている時などに、よく鼻歌のように歌っているでしょう?」 「そ、そうですか?」  指摘されて初めて自分の癖を知った煜瑾は、急に恥ずかしくなり、文維の腕の中から抜け出そうとした。 「行かないで、煜瑾」

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