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番外編 青年期 ポスターの肖像 10
翌朝、腹の虫を刺激する香ばしいパンが焙られた香りと、馨しい紅茶の香りによってジルは目を覚ました。
寝起きはいつでも良い方で、だいたい同じ時間に目を醒ますと朝食前に寮の近所の大きな公園に走りに行くが今朝は様子が違っていた。
寮のそっけない灰入りっぽい合板の天井でなく、明らかに見知らぬ高い天井、青を基調に落ち着い雰囲気に設えた部屋。大きな寝台、窓の外色づく街路樹の向こうにも瀟洒なアパートメント。
バスローブ姿で、身を起こすとなんと無く下腹部中心に肌がカピカピとしている。
思い出される、仄暗いランプの下僅かに浮かび上がる艶っぽい先生の肢体。体格も変わらぬ同じ男と思えぬほどの色香にすっかり惑わされ、耽溺してしまった夜だった。かなり強引に先生に迫り、その素肌に触れ、そしてそのまま眠ってしまったらしい。
幸い窓の外に先生の宣言通り、腹いせに吊るされることはなかったようだ……
それにしてもかなり際どいことを出会って二日の、それも年上の男性に仕掛けてしまった。猛烈に内省するも、すでに遅い。
「うわ…… 俺……」
「おい、起きたか? シャワー浴びてすぐダイニングにすぐ来い」
「うわ! あ、はい!」
朝日の中、黒のタートルネックに同色のパンツ姿のセラフィンがやってきた。昨日の色気ある雰囲気などみじんも感じさせないさっぱりとした診療室にいるのと変わらぬ怜悧な面差しだ。
いまだ頭がねこけていたジルを呼びに来て、くしゃくしゃのヒヨコのような色の髪の毛で瞼を擦るジルに彼にしては大声で呼びかけると、自分はダイニングにさっさと戻っていった。
シャワー後ももはや制服のようになったバスローブ姿で食卓に座らされる。着替えようと思った自分の服は昨晩おいたリネン室からなくなっていたのだ。
仕方がないので今度はまた用意されていた新しい紺色のバスローブに着替えて朝日が眩しいリビングまですごすごと出てきた。
「先生、俺の服は? えっ! あっ! おはようございます」
「おはようございます。ジル様のお洋服ですがクリーニングのためお預かりし、夕方迄にはコチラにお届けに上がりますのでご不便でしょうが今しばらくお待ちくださいませ」
結構広いダイニングスペースには席について朝食をすでにとっている先生の他に、なんともう一人人がいて、ジルは驚いてしまった。
明らかに貴族の家の侍女のような品のいい白髪の、おばあちゃんというべき年頃の人が、柔和ながらもきりっとした白いエプロンを濃紺のワンピースドレスにかけたきりっとした立ち姿でこちらに向かって一礼してきた。慌ててジルも深々と頭を下げる。突然、一人暮らしのアパートの一室が貴族の邸宅のそれに変化したかのようだ。空気感までもが居住まいをただしたくなるものに変化する。
「さあお座りください」
「おはようございます。あの、俺、中央警察にこの春から務めております。ジル・アドニアです。先生とは軍との演習で知り合いまして。あの、ええと」
どんな関係かと聞かれる前に応えようかと思ったのだが、ぎろっとセラフィンの青い目が剥かれて『余計なことを口走ったら殺す』とジルを射殺してきた。
「アドニア様。私めに挨拶など不要です。私はセラフィン坊ちゃんのお世話を母君から仰せつかった身。モルス家のただの一使用人に過ぎぬものです」
すまし顔で朝食をとりながらもセラフィンはややげんなりした様子で彼女をみてため息をついた。
「……過保護極まれりだろ、うちの親。20も半ばになった息子に週に3日も侍女頭まで勤め上げた人を身の回りの世話によこすなんて」
「まあ、坊ちゃま。引退申し上げたこんな老いぼれの世話になどならないと、そういっしゃるのですか」
「そんなわけがないだろう。マリアじゃなければとっくに追い返してる」
その言葉にはマリアも若き日はさぞや美貌を誇ったであろう、皺皺の顔をさらにくしゃっとさせて嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしょうとも。セラフィン様もソフィアリ様も、赤子のときからこのマリアがジブリール様と共に手塩にかけて育てた大切な坊ちゃまです。外国から8年ぶりに帰ってきたばかりで右も左もわからぬとは心細かろうと、ご実家に戻るように皆で進言差し上げましたのにこんな小さなお部屋で一人暮らしを始めるなどと……」
(ソフィアリ様…… ソフィー? やっぱり兄弟がいるんだ)
注意深く話を聞いていたら、二人の会話の中でまたあの名前に繋がるのものが出てきた。ポスターの肖像はやはり先生の兄弟。それもそっくりな人物に違いない。もしかしたら双子の兄弟なのかもしれない。
「あのなあ、マリア。帰国するとき部屋を探しておいてってバルク兄さんに探したら紹介されたのがたまたまここで…… ここだってバルク兄さんの差し金のせいで、実家から1区画しか離れてないし。俺はテグニ国にいたころは学生寮にいた時だってあったし、別に一人暮らしできないわけじゃない」
「でも勉強に打ち込むあまりに寝食がおろそかになることもしばしばだったとイオル様からの書簡にもあったと……」
「ああ、もうわかったから。ジルの食事の面倒でもみてやってくれ」
「さあさ。まだまだございますよ。いくらでも召し上がってくださいね」
「ありがとうございます。とても美味しい。こんなに美味しい朝食は実家で暮らしていた時以来です。本当に美味しい。マリアさんありがとう」
服装はあれだがチャーミングな笑顔のジルに、マリアもすっかり気を許してニコニコしながらパンとチーズを焙っては彼のさらに盛り付けてくれる。フルーツジュースもミルクも、実家からマリアと共に運転手付きで持ち込まれたもので新鮮この上ない。
ジルは意外にしつけに煩い保護者がいたのか食べ方が綺麗で不快感は全くないが、しかし量は怖ろしく食べるなあとセラフィンはまたあきれ顔だ。
しかし昨日の夜のあの元気有り余る姿をみたら夜ご飯を共に抜いていたはずの彼が腹が減るのはどおりだろう。
「マリア。ジルにその、ハムとか…… 肉ももっと足してやってくれ。俺の倍は食べさせてやってくれ」
その言葉にジルとマリアの二人が占め合わせたかのようにそろってセラフィンを意外そうな驚いたような顔をしてみてきた。ナプキンで口元を吹いていたセラフィンが形良い青い目を見張って二人を怪訝な顔で見つめ返す。
「なんだよ?」
「セラフィン様が初めて家にお友達を連れてきたうえに、こんなにも気遣いをされるなんて。マリアは長生きして本当によかった。小さいころの優しいセラフィン様が戻ってきたみたいで、マリアは本当に嬉しい」
そんな調子で涙をぬぐう指先に、ジルは気づかわし気に自分の手元のナプキンを渡してあげて背中をさすってあげる。
「先生やっぱり世話好きだよな? やっぱり、姿かたちだけじゃなくて、心も綺麗で優しい」
それにはセラフィンもわなわなと肩を震わせながら、二人に向かって大声を出した。
「お前たちは! 俺をなんだと思ってるんだ!」
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