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第5話 浸潤
足立は俺の名前を知ってくれていたらしい。
感慨深くなって、顔に熱がいくのを感じる。
落としてしまったスニーカーを素早く拾い上げた俺は、足立の真っ直ぐな視線から逃れるように顔をうつむけた。
「な、なに」
きっと笑いにきたのだ、とすぐに思った。
古文の時間にやらかしてしまったことと、ノートに自分の妄想を思うがままに書いていること。それを「どうかと思うよ」とわざわざ伝えるために待ち伏せしていたのだ。
けれどそれでも、いいと思った。
足立はようやく、何かしらの興味を持ってくれたという意味だ。例えそれが自分にとって芳 しくないことでも。
大人しく、笑われ待ちをする。
「萩原 って、もう部活行っちゃった?」
けれど全く違うことを指摘され、へ、と間抜けな声が出た。
はぎわら。
萩原とは雄飛の苗字だ。どうやら自分にではなく、雄飛に用事があったらしい。
「うん、もう、行った」
拍子抜けしたが、やはり嬉しくもあった。
自分に雄飛のことを訊いてきたということは、雄飛と仲良くしているクラスメイトといえば花巻、くらいの認識はあるのだろう。雑草と同じ扱いではなかった。
どうしたの、と視線を上げると、足立は精悍 な顔つきで、けれど柔和で優しい目をして訊いてきた。
「あのノートって萩原の?」
「ノート?」
「今日廊下で、俺が拾って花巻に渡したやつ」
「えっ」
てっきり自分のノートだとバレていると思っていたが、そういえばあの時、ノートは雄飛の手から転げ落ちた。だからあれは雄飛のものなのかと訊きたいのだろう。
言わなければ雄飛が創作していることになってしまうのに、なかなか言い出せない。だって絶対、馬鹿にされるに決まってる。
黙り込む俺を見て、何か言えない事情があるのかと察したみたいで深くは追求してこなかった。
その代わりに、足立はなぜか自分の手のひらを上に向けた。
「ノートにさ、『問い正す』って書いてあったんだけど、あのシーンだったら正確には質量の質で『問い質 す』だと思うよ。不明な点を聞いて明らかにすることが問い質す」
指で手のひらに文字を書きながら淡々と言うものだから、ポカンとした。
確かにそんなことを書いたかもしれない。話に納得できない女の子は○○に問い正して……。
書く時は頭に浮かんだことを大急ぎで書くのでミミズ文字みたいになるし、もちろん誤字なんて沢山ある。
足立はあの時、文面を一瞬で理解して、その間違いに気が付いたということだろうか。
なんという洞察力と視力。感心してしまう。
「──てことを、ノートの持ち主に伝えてもらっていい?」
こっちが何も言わないうちに足立はそう言って、じゃ、と片手を上げて帰ろうとしたので、俺は慌てて呼び止めた。
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