30 / 94

【3】第1話 過去

 帰宅して、真っ先に自室の机に向かった。  髪からはものすごくいい香りがするし、毛先もまとまって、頭には天使の輪っぽいのもできている。何かいい話が書けそうな気がしてスマホを手に持ったが、気がしただけで何も言葉にできなかった。  足立と康二さんが出会ったのは雷が鳴った日。  康二さんがまだ専門学生だったころ。  バイトからの帰宅途中、足立の家の前を通りかかった康二さんは、その時の異様な光景を未だに忘れられないといった。 『土砂降りの雨の中、あの子は傘もささずに裸足のまま外に出てたんだよ。一体どうしたのって声をかけて』  白亜の豪邸のタイル張りの玄関ポーチに1人立っていた足立は、自分で自分を抱きしめるようにしながら、雷鳴が(とどろ)く空をぼんやりと見上げていた。  康二さんはすぐにインターホンを押したが、家主が出てくる気配はなかったので、とりあえず足立と家の中に入った。  キッチンシンクには食器が溜まり、リビングには脱ぎっぱなしの衣類が放ってあったりと、少々荒れていた。  気になったのは、電気ケトルが横に倒され、まだ熱い湯がテーブルと床に広がっていたことだった。テーブルの端にはカップラーメンがあり、半分ほど湯が入れられた状態だった。  足立は『お腹が熱い』というので理由を聞けば、手を滑らせて湯を体に浴びてしまったのだという。それで、雨にうたれて体を冷やそうとしたらしい。 『シャワーを使えばよかったのに、よほどテンパっていたんだろうね。それで僕、すぐに病院に連れて行ったんだ』  病院で応急処置をしてもらっている間に、親はどうしたのかと訊いても足立は『2人とも忙しいから』とだけしか言わなかった。  帰宅してから康二さんは、宅配便ダンボールの伝票に書いてあった母親の携帯電話番号に連絡をした。  事情を説明すれば慌てた様子で数時間後に帰宅したらしいのだが。 『帰ってきた母親は、まずあの子になんて言ったと思う? どうしてお湯なんか沸かしたのよ!って、鬼の形相でさ』  確かに母親の言う通り、危険なことだったのかもしれない。  だがそれは仕方の無いことだった。母親は、夫が海外出張中であるのをいいことに、愛人と共に1週間、別の場所で過ごしていたのだという。  その日がちょうど、1週間目。  足立はその間、学校や周りに助けを求めることなく、『おりこうにしていてね』という母親の言いつけを守り、粛々と普段通りの生活を送っていた。  康二さんは、これは虐待にあたること、足立に落ち度はないことなどを母親に理解を得るように言ったが、聞く耳を持って貰えなかったらしい。 『終いには、この人がどうしても一緒にいたいっていうから仕方なかったのよって、隣にいる愛人のせいにしていたからね。男も、そんな風には言ってないって反論して、そこからどうでもいい口喧嘩が始まって、結局2人はそのまま別れることにしたんだよ。あの子には一言も謝らなかった。ダメな人達だなって思ったよ』  足立の両親は元々冷めきった夫婦だったらしく、実は父親も若い愛人をこさえ、好き勝手していたという事実を足立は知っていた。  というか、母と父、どちらの愛人も家に来たことがあったという。

ともだちにシェアしよう!