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第4話 名前
ペットを呼ぶ時のニュアンスで、優しく名前を呼ばれた。
瞬間、ぎゅうっと胸の内が甘く傷んだ気がした。
どうしてだろう、そんな風に可愛いとか、ちゃん付けで呼ばれるのとか、男扱いされていないみたいで苦手なはずなのに、足立に言われたらちっとも嫌じゃない。康二さんが言うのとは訳が違う。
「どう? なんか変な感じする?」
「まぁ、いきなりでビックリしたっていうか……」
むしろもっと、呼んで欲しい。
体と心は正直だ。
それは心地いいことだって、細胞が叫んでいる。
「試しに、もう1回言ってみて」
「史緒ちゃん?」
「う……もう1回……」
「史緒ちゃん」
「うわ……なんか……」
「史緒ちゃん史緒ちゃん、しーおーちゃんっ」
「もういい、もういい」
これ以上呼ばれると、耳たぶがちぎれて血が吹き出しそうだし、本気で心臓が破裂しそうだった。
ガブガブと、出されたブラックコーヒーを浴びるように飲み干した。
いきなりなんなんだ。
可愛いとかいう話をしたからいけなかったのだ。
史緒ちゃんだなんて呼ぶのは康二さんくらいだ。
子供の頃だって呼ばれていない……とは、断言できなかった。
──史緒ちゃん。
──史緒ちゃん、こっちにおいで。一緒に遊ぼうよ。
いや、確か誰かに呼ばれていた。
誰にだっけ。
その子は、玉を転がすような笑い声をあげていたはずだ。
「そういえは、史緒ちゃんって……子供の頃に呼ばれてたな」
足立はふと顔をあげ、しげしげと見つめてくる。
「みんなから?」
「いや、ほとんどの人は俺のことは呼び捨てか、苗字だった。史緒ちゃんなんて呼んでた人は……」
頭が霞みがかって曖昧になるが、あれはきっと、仲良くしていたクラス1人気者の女の子だ。
服装も髪型も、ボーイッシュだった。
「──たぶん、隣の席に座ってたあの女の子だと思う。もう顔も名前も覚えてないけど」
足立は笑い、バターサンドの最後の一欠片を口に入れた。
「どんなに仲良くしてたとしても、思い出せないことってあるよね。俺も、昔しょっちゅう遊んでた子がいたんだけど、顔がハッキリと思い出せないんだ。公園へ行ったとか、この家で走り回ったとか、一緒にしたことは覚えてるのに」
「そうそう。手紙をもらったり、本を借りたりした覚えはあるんだけどね。葡萄 を食べる時、その子を思い出すことはあるよ」
「なんで葡萄?」
「その子は葡萄の匂い付き消しゴムを使ってたんだ。葡萄の香りを嗅ぐと、その子のことをふと思い出すんだよね」
「それ、プルースト現象だね」
「なにそれ?」
カップに入っている紅茶を見ながら、足立は優しく教えてくれた。
プルースト現象というのは、匂いが引き金になって、意図せず何かの記憶が呼び起こされる現象のこと。『失われた時を求めて』という物語の中に、紅茶に浸したマドレーヌの香りをかぐと、主人公が幼少期を思い出すというシーンがあり、それが名前の由来となったそうだ。
プルースト現象のことは知らなかったが、その小説の名は知っている。確か最も長い小説としてギネスに認定されている。
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