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第8話 問題

 車内はほんのり甘く、自分の家では嗅いだことのない柔軟剤のような匂いがしていた。  俺になんの用だろう。  足立に言われたのだろうか。史緒と話してきてほしいと。そうだったらどんなに嬉しいことだろう。 「史緒ちゃん、あの子を振ったみたいだね」  指摘されると、心臓がぎゅっと痛くなった。  きっと全部知っているのだ。過去のことはもちろん、自分が雄飛とこれまでしてきたことまで。 「あんないい子を振るなんて、君は贅沢者だね」 「……というか康二さん、どうして嘘吐いたんですか。足立には、子供の頃からずっと想ってる人がいるからって」 「それは嘘じゃなかったでしょう?」 「そうですけど……やめておけって俺本人にあんな言い方は」 「そうやって言われて、恭太郎のことはやめておこうって思った?」  それは正直、思わなかった。好きでいるだけなら罪じゃないと思っていた。  反射的に首を横に振ってみせると、康二さんは眼鏡の奥の目を細めたので、本音を見透かされた気がして照れてしまい、窓の外に視線を合わせた。 「やっぱり好きだったんじゃん。両想いだったのにどうして君は、お友達と付き合ってるの?」  流れる窓外の景色を目で追う俺はぼんやりとする。  ほんの少しだけ雨が降り始めていた。傘を持っていなかったから、乗せてもらえてちょうど良かったかもしれない。 「付き合っては、ないです。はじめから」 「え? 付き合ってないの? 恭太郎はそう言ってたけど」 「ただの友達です」 「ふぅん、なんか軽いんだね。今どきの高校生って、友達同士でも最後までしちゃうんだ」  かぁっと顔が熱くなる。  足立は一体、この人にどんな言葉で伝えたのだろう。あられもない妄想をされていそうで恥ずかしくなる。 「最後までは、して、ないです」  たどたどしく声を発したのと、康二さんが車のライトを付けたのは同時だった。  外はすっかり紺色に染まっている。 「あれ、なんだか恭太郎の言ってたことと違うな。してないの?」 「……からだ、を」  ──触られて。  出ない言葉を()み取ったのか、しばらくの沈黙の後で「そっか」と返事をされた。  あの日、暗闇の中で後ろへ倒された俺は抵抗する間もなく、身体を触られてしまった。服の中に潜り込んできた手を払おうとするも、あまりにも強い刺激に頭がクラクラと酩酊してしまい、なされるがままだった。  普段、あまり自慰はしない方だ。  足立とキスをして、家から逃げ出した日からは余計にだった。父にそういうやましい欲があったからこそ不倫が成立してしまったのかと思うと、どうしてもそういう気になれなかった。  だから雄飛に触られると体がすぐに反応し、さざ波のように押し寄せる快楽に抵抗できず、雄飛の目の前で欲を放ってしまった。  1番恥ずかしいと思ったのは、暗闇にいる恐怖よりも官能が上回ったこと。情けなくて、どうしたらいいのか分からずに俺はあの場から逃げ出した。 「そのこと、ちゃんとあの子に言った? 最後までしてないって知ったら、あの子の傷付いた気持ちは多少はマシになるかもよ」 「もう、いいんです。足立とはもう関係ないから。俺は弱いから、ずっと人の顔色を伺って生きてきました。今更そんな風な言い訳をして、好きだなんて言えません。親友と隠れてそういうことをしてきたことに変わりはないから」  車なら家まで10分程度の距離だが、教えた道とは違う道を走っている。康二さんは初めから話が長くなると予想していたのだろう。 「なるほどね。ではここで問題です。史緒ちゃん、今日は一体何の日でしょう? ヒントは、あの子が関係していることです」  突然の明るい問いかけに戸惑う。  今日は何の変哲もない、ただの平日だ。  窓に流れる水滴を目で追いながら考えて、ふと思いついたことを口にした。 「足立の、誕生日ですか」 「ざんねーん、不正解。雷が鳴る日ですー。ちなみにあの子の誕生日は3月」  不穏な空気を吹き飛ばすように、クスクスと笑われた。

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