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第10話 朧気

 ふと、そんな言葉が口に出てしまう。  負け惜しみなのは分かっているので、恥ずかしさはとっくに通り過ぎていた。こんなことしか言えない自分が情けないが、それ以外に止める方法を思いつかなかった。 「あ、そういうことは言えるんだね」  はっきりと傷付けたのに、目の前の人は勝ち気な態度を崩さない。軽く笑って、俺の言葉を受け流した。 「だけど、あの子がそう言ってたのは夏頃の話でしょう? あれから時間が経ってるんだから人の気持ちだって変わるよ。僕が気持ちを伝えたら多少は動揺すると思うけど、完全に拒絶なんてしないはずだよ。僕はあの子の心の拠り所だからね」 「それは……っ」  また、何も言い返せなくなってしまう。  康二さんの言う通りだし、その考えを覆すほどの説得力を持った説明ができない。頭の中で組み立てている言葉が洪水のように流れてこんがらがって、無言になってしまう。  そんな自分を見て満足したようで、康二さんは眼鏡の奥の目を細めた。 「『ダメだ』って、『そばにいてあげるのは自分がいいです』って懇願してくれば、僕も気持ちが揺らいだんだろうけど。わざわざ確認しにくるまでもなかったな。やっぱり史緒ちゃんは、弱くて脆くて頼りない。恭太郎の唯一の欠点は、そんな子を何年も好きになっちゃってたってことだね」  その通りだと認めたら、体の力が抜けた。  何も言えずに黙り込んでいる俺はきっと、足立のそばに行ってはいけない。足立を雷以外の危険なものからも守れるくらいに頼りがいのあるこの人こそ、足立にはきっと相応しいのだ。  ドリンクホルダーにカップを置いた康二さんは、笑顔でエンジンを掛けて発車させた。 「心配しなくても、あの子の傷は僕がちゃんと引き受けるから。じゃあ話も終わったことだし、家まで送るね」    もう何も期待されなくなったことに、ホッとしたような、すごく苛立つような気持ちになった。  いつになく微妙な空気感は払拭できぬまま時が過ぎ、俺が次に声を出せたのは、自宅の前で降ろされた時だった。  礼を言って軽く頭を下げると、康二さんは「また、切りにおいでよ」という言葉を残して手を振り、去っていった。  さぁさぁと響く雨音が、自分を優しく撫でていた。しばらくその場に立ったままでいたが、帰ってきた母親に声を掛けられたことで我に帰り、家へ入る。  着替えをし、部屋のベッドに腰掛けながらスマホに目を向けた。スマホの画面にはずっと足立の名前が表示されていたのに、電話を掛けられる勇気がなかった。    (嫌だ。嫌なのに……)  学校ではあんなに平気になったと思って平然と過ごしてきたのに、康二さんの一言でまたモヤモヤが湧いてきてしまった。今まで気付かない振りをしていただけで、本当はずっと胸の奥に(しこ)りがあったのかもしれない。    そんな時に、外から雷の音が聞こえてきて身が(すく)んだ。窓のそばに近づいてカーテンの隙間から空を見上げると、黒い雲の隙間で光がチカチカと光っているのが分かった。  目を閉じると、足立や康二さんのいろんな表情が浮かんで消えていった。  次に雄飛、そして父親。  みんな俺を哀しい瞳で見ている。ただ唯一、由井さんだけは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。   『人って、利己よりも利他で動く方が幸福感を感じやすい生き物なのよ』    作品をネットに上げることを躊躇っていた俺の背中をそう言って押してくれた由井さん。自分の為じゃなく、誰かの為に。それならばいつもの何倍ものパワーを発揮できて、生きている証のようなものが胸に刻まるのだと。  足立がもし、まだ自分を好きでいてくれたら。  自分もずっと足立が好きなのだと伝えられたら、足立は喜んで受け入れてくれるだろうか。  何よりこの、胸の痛みが答えだった。  取られたくない。渡したくない。康二さんじゃなくて、自分が足立を守ってあげたい。  いつの間にか康二さんに言われるがままだったさっきまでの自分に、無性に腹が立っていた。  どうしてもっと、言い返さなかったんだろう。  コートを羽織って忙しなく階段を降りた俺は、母親の呼び止める声を背後で受け止めて家を出た。  足は雄飛の家へ向かっていた。

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