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第2話 耽溺
「康二の美容室で一緒に働いてる女の人がいたでしょ? あの人が奥さんだよ」
「えー!」
「子供だっているんだよ? 今度4歳になる」
「う、嘘……」
美容室で働いていた女の人の顔を今更思い出す。
あの人が康二さんの奥さんで、さらには子供まで。
そういえば車の中は、どこか甘い香りが漂っていた。今考えるとあれは、子供特有の匂いだったのだろうか。そりゃあ足立も、付き合いたいなど考えたことも無いと言う訳だ。
「疑心暗鬼になりそうです」
キッと康二さんを睨むが、当の本人はケラケラと笑ってはしゃいでいた。
「だって史緒ちゃん、面白いんだもーん。恭太郎に告白するって言ったら、あからさまに青ざめちゃってさ」
「どうしてそんな嘘を……」
答えは分かるでしょ、とでも言うように穏やかな視線がささる。
あえてあんな風に言って、俺の気持ちを確かめたかったのだ。わざと挑発して、足立と向き合って仲直りが出来るように。
恋愛感情はないけれど、友情以上の繋がりがある足立を放っておけなくて一役買って出たのだ。
まさか窓ガラスを割られるとは誰も予想していなかっただろうが。
「僕は史緒ちゃんと出会う前、バカ親の子供はどんなバカなんだろうって思ってた」
康二さんは少し真面目なトーンに切り替える。
「恭太郎はずっと史緒ちゃんを想ってて、それがどこか許せなくて。そんな子やめて、他の子を好きになりなって言ったこともあったけど、史緒ちゃんがどんな人か分かってからは、この子だったら大丈夫かもって思い始めたんだ」
ふと、斜め向かいの足立をちらりと見る。
目が合うと、緩やかに頷いてくれた。
瞳の奥がジワジワと重くなってくる。
足立は受け入れてくれたのだ。俺の想いをちゃんと。
「恭太郎は小さい頃からずっと、可哀想な思いをしてきたから。僕はこの子に、いい加減幸せになってもらいたいんだ。恭太郎が史緒ちゃんといるのが幸せだって言うんなら、僕は快く史緒ちゃんに託すよ。この子の傷も、なにもかも」
雄飛に言われたことと似ていた。
雄飛は俺が幸せになることを望んでいる。
好きだから、誰よりも幸せになってほしい、ずっと笑っていてほしいと。
「俺はまだまだ未熟者で、足立の傷付いた心を瞬時に癒すくらいの力はまだ無いですけど」
今は雨が降っていても、それは永遠には続かない。ひなたの下で、手を繋いで笑い合える時がきっと来る。
「足立とずっと一緒にいたいです。それで一緒に、幸せになりたいです」
足立も俺の言葉に続いた。
「俺もずっと、史緒がいい。昔からずっと、大好きだったから」
面映ゆい気分になり、唇を噛み締めながら顔を俯けた。
顔が熱湯を注がれたように熱い。
両想いになれた事実に、これ以上の無い安堵感と幸福感が身を包んだ。
康二さんはもう俺たちを茶化したりしようとせずに、雨の中を車で帰って行った。
残された俺たちはしばらく夢見心地でソファーに座っていたけれど、今になって全身が濡れていたことに気付き、風呂に入れさせてもらった。
足立の服を借りて着るが、俺が着るとブカブカで裾が長く、3回折り返してどうにか自分の体にフィットさせる。その格好を見た足立は照れたように顔を背けていた。
気付けばもう夜の9時をまわっていたので、泊まらせてもらうことになった。
母親に連絡を入れてからまたソファーでくつろがせてもらっていると、足立は今気付いたように切り出した。
「史緒、夕御飯は?」
「あ、そういえば食べてないや」
色々とありすぎて、今の今まで食事のことは忘れていた。だが指摘された途端にお腹の虫が鳴り、恥ずかしくなる。
足立もまだだったようなので、一緒にお茶漬けを食べた。鮭と梅のしょっぱい味が身体に染みて、じーんと胸があたたかくなる。
涙が出そうになるのを堪えて完食し、歯を磨いて階段を上った。
折り返しのところから、外の景色が見えた。向かいの家の赤い屋根や、ガラスの表札。ここで足立とクスクスと笑い合っている夢を見たのを思い出す。
真横に足立が来て、窓から一緒に外を眺めた。
「ここ、前も見てたよね。何か気になる?」
「うん。昔、この場所で足立とこんな風に、外を見たりした?」
足立は嬉しそうに目を細めた。
「そんな気がするの?」
「うん。足立がここで耳元で何かを囁いてくれたような気がする」
「へぇ、凄い。ほんの少しでも、史緒の中に俺との思い出が残ってて嬉しい。そうだよ。ここで史緒と話して笑った」
「え、やっぱりそうなの?」
「子供の頃、そこの家の庭にミカンの木があったんだ。あのミカン、食べたいねって話をして、じゃあ俺が肩車するから史緒ちゃんがとってよって言ったら、それいいねって」
昔は木があったであろうその箇所を見つめる。
俺たちって、やはり仲が良かったのだ。
これからもそんなふうに、他愛もないことで笑い合える関係になれるといいなと心から思った。
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