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第5話 安堵

「すごい意外。足立、自分のことを好きじゃないとか思ったことがあるなんて」  本音を口にすると、え、と困ったようにクスクスと笑われた。 「常に自分を好きでいられる人なんてそうそういないよ。前に史緒に『自分を卑下するのはイラつくからやめろ』って俺が偉そうに言ったの、覚えてる?」 「あぁ、偉そうにかは分かんないけど覚えてるよ」 「あれはさ、昔の自分に向けての言葉でもあったんだよね」  手の角度を変えて指をより深く絡ませられる度、甘い疼きが広がって心臓が鷲掴みされたように痛くなる。  バレないように深く呼吸をして、どうにかやり過ごした。 「自分が嫌いだ、から、好きになれるかもに変わった瞬間のこと、覚えてるよ」 「え、すごい。いつ?」 「史緒が好きかもって気付いた時」  足立は俺のことを子供の頃から好きだったと言っていたが、明確な時期は明かされていない。  そんな瞬間さえも記憶しているだなんて、足立は只者ではない気がした。 「秋だった。部屋で史緒と遊んでたら、外に行ってきなさいって母親に言われて。天気も悪かったし、家の中で遊びたい気分だったから、俺、めずらしく反抗したんだ。嫌だって言ったら……」  その時の情景に思いを馳せたのか、少しの間があった。 「平手打ちされた」 「えっ?!」 「まぁ、そこまで痛くなかったけど」  問題はそこじゃない。  俺は身を起こして足立の顔を見た。  ほんの少し順応した瞳は、苦笑うような表情をうっすらと捉える。 「そういうこと、何度もされてたの?」 「ううん、叩かれたのはそれが最初で最後」 「ほ、本当に?」 「うん」  正直、事実と違う気がした。  幼い子供を1週間、家に置いていくような親だ。  心理的にだけではなく、身体的なものもあったのかもしれない。 「本当だから、信じて」  俺の気持ちを汲み取ったように足立は穏やかに言って、寝転がるように促す。  そう言われてもまだ疑っていたが、おとなしく枕に頭を付けた。 「それで、しぶしぶ史緒と外に出ることにしたんだ。叩かれた時は呆然としてたんだけど、時間が経ってから、自分が情けなくなってきて。どうして俺は反論せずに、おとなしく言うことを聞いてるんだろうって、それまでの自分の行動も思い返して落ち込んだんだ。ものすごく自分が嫌になってね。その時に隣にいた史緒ちゃんが言ったんだ。『大丈夫だよー』って」  ちょっと声色を変えて足立はおどけてみせた。 「『大丈夫だよー、ぼく、元気になれるおまじないをかけてあげるから』って、ハグしてくれたの」  そう言われた瞬間、頭の隅に引っかかるものがあった。  雨上がりなのか、ぬかるんだ土がスニーカーに付いた。隣にいる男の子に公園に行こうと誘われたけれど、さっきまで元気だったその子は、どうやらしゅんとしている。  どうしようか。そうだハグだ、ハグをして慰めてあげよう── 「それがすごく、嬉しかった。さっき叩かれたことなんてどうでもよくなるくらいに癒されたんだ。見た目だけじゃなくて、本物の天使みたいだなって思って。自分は史緒が本当に大好きなんだって、安心したのを覚えてる」  ちょっとだけ涙が滲んだ。  はやく、なにか気の利いたことを。  いま伝えないと後悔してしまう。    文字を紡いで表現する趣味を持っているくせに、的確な言葉がひとつも出なかった。  頭に浮かぶのは、簡単すぎるありきたりな言葉だけだ。  それでもいい。やわらかい手のぬくもりを感じながら、足立に真っ直ぐに伝える。 「俺、大好きだよ、足立のこと。ちゃんと好きだから」  だからずっと好きでいて。  俺もこれからもずっと好きでいるから。  心から溢れ出る気持ちに対して唇が全く追いつかない。  この恋は本気なのだと、どう言えば伝わるのだろう。  歯がゆく思いながら眉根を寄せて切なく見つめる。  伝われ、と念じたのが届いたのか、足立は手のひらを重ね合わせ、指をより濃く絡ませてきた。 「今日、ここに来てくれてありがとう。嬉しかったよ。史緒があんな風に怒って。康二にもちゃんと言ってくれて」  そう言って、俺の手をぐいと引き寄せる。  ぎし、とスプリングが鳴って、しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと息を吐き出す音が聞こえた。   「ねぇ。やっぱりちょっとだけ、史緒の隣にいってもいい?」

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