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苦く甘美な熱情

「水沢、大丈夫か? ああ、そっちじゃない。こっちだぞ」 「ん、なんか、雲の上にいるみたいだ……」  酔っぱらったフリをするのは初めてだが、なかなかの名演技じゃないか。  俺は心の中で自分を褒めながら、わざとらしく足元をふらつかせ、隣にいる男の腕を控えめに掴む。 「もうちょっと寄りかかれよ。ほら」 「悪いな、藤堂。迷惑かけて」  力強い腕に肩を引き寄せられ、それなら遠慮なく、とばかりに体を預けすまなそうに見上げると、非の打ちどころのない男らしい美貌が慈愛に満ちた微笑に緩む。その凛々しい眼差しの奥にほの見える熱情を、おそらく俺以外の誰も気付いていない。  宿泊社員研修最終日の懇親会、悪酔いしたフリをすれば、藤堂が部屋まで送ると手を上げるだろうことは計算づくだ。誰にでも優しく気遣い溢れる、仲間内のリーダーであるヤツが、具合の悪い人間を率先して介抱する流れはごく自然で、その相手が俺だったとしても、そこに何ら特別な意味を見出す者はいないだろう。  表向きは特別仲がよくも悪くもないと思われている俺達2人。互いの間に流れる「特別な感情」を日頃はうまく隠し切り、決して表に出すことはない。  同期入社で同じ営業部に配属された俺と藤堂とは、当初ライバルとみなされていたが、わずか3年でその差は天地ほど開いた。容姿も能力も性格も絵に描いたように完璧な藤堂は、契約数のグラフを一人で伸ばし、多くの上司や同僚に慕われ、女子社員の憧れの視線を一身に受けていた。すべてにおいて平均的な俺は、藤堂が輝くごとに影が薄くなり、存在感を失っていった。  人には持って生まれた能力というものがある。持てる者と持たざる者との差は、どんなに努力しようと容易に埋まりはしない。藤堂がそばにいる限り、俺はこの醜く苦い感情がもたらす決定的な敗北感と、うまく折り合いをつけながらやっていくしかないのだろうと諦めていた。  そんなとき、気付いたのだ。 「ほら、水沢。座れ」  ぐったりした俺の体をベッドに座らせ、スーツの上着を脱がせてくれながら、藤堂は優しく笑う。 「おまえがこんなに酔っぱらうなんて珍しいな。さすがに研修の疲れが出たか?」 「そうかもな。全く情けないよ。……あぁ、なんか暑いな」  スパルタとはいえ、たかが5日の研修がこたえるほどヤワじゃない。だが意識的に弱さをアピールし、見せつけるようにネクタイを緩め胸元のボタンをおもむろにはずすと、常に相手をまっすぐ見て話す男の目がわずかに熱を帯びて移ろい、逸らされた。  そう、この目だ。  仕事中視線を感じて顔を上げると、営業1課と2課を仕切るパーテーションの窓越しに、藤堂がこの目で俺を見ていた。視線が合うと戸惑ったようにすぐ逸らされたが、その不明瞭な仕草が彼らしくなく、なんだか奇妙に感じた。  それからは、ヤツの視線が気になるようになった。気になり出すと、藤堂が常にそうして俺のことをみつめていることに気付いた。涼やかで健康的な男には似つかわしくない熱情を帯びた眼差しは、その胸の奥の感情を雄弁に語っていた。  数えきれないほどの女子社員のアプローチを上手にかわし、決して特別な相手を作ろうとしなかったその理由は、思いもかけないものだった。最初、俺は動揺した。だがその混乱はすぐに、舞い上がるほどの喜びに変わった。  ヤツの視線を感じるたびに、虚しい敗北感は薄らいだ。俺はあいつに勝っている、と確信できた。欲しいものは何でも手に入る藤堂が、唯一手に入れられないのがこの俺なのだと思うと、残酷な愉悦が全身を満たした。 だが藤堂は、それ以上俺との距離を詰めようとはしてこなかった。窓を隔てた場所から、ただじっとみつめてくるだけで。  眼差しだけではもの足りない。もっと欲してくれれば、全身を侵すこの苦い感情は一転して甘美なものに変わるだろうに。  ベッドサイドのテーブルに一輪飾られた黄色い薔薇が、なぜかやけに神経を逆撫でする。開き過ぎたその薔薇が花びらを散らすたびに熟れた甘い匂いが漂い、この醜い身も心も腐らせていくような気がした。 「少し、横になってもいいか? 起きてるとかったるい」  相手がいいと言う前にベッドに身を投げ出した。そんな俺からあえて視線を逸らし所在なげにしている藤堂に、 「ここに座れよ」と、ベッドを叩き促す。 「ん、あぁ」  覚悟を決めたのか、藤堂は言われるままにベッドの端に座り、表情を綺麗に切り替える。いつもの普通の、同僚の顔に。 「しかし、今日はハードで参ったな。休憩時間なしで5時間びっしりしごかれるとは思わなかった」  どんな難しい課題でも模範解答を瞬時にまとめ堂々と発表できるヤツが、「参った」などと言っても嫌味なだけだ。卑屈で嫉妬深い俺の中に、また苦味が満ちてくる。 「いや、藤堂はすごいよ。仕事はできるし研修でもずっとリーダーで、完璧にかっこいい。敵わないって改めて思ったね」  なけなしのプライドで日頃は口にしない賛辞を、甘い声に乗せてやると、相手はわずかに目を見開き苦笑する。 「おまえがそんなこと言うなんて、どうしたんだ?」 「本当はいつも、そう思ってるよ」  俺は思わせぶりに告げ、少し上体を起こし相手の瞳をみつめる。藤堂の口元から微笑が消える。 「水沢……」  開きかけた唇から言葉は続かない。入り込む沈黙に、欲しいと正直に高鳴る互いの鼓動が響く。 「そうだ、水飲むか? ちょっと外の自販で買ってくる」  露骨に視線を逸らし逃げようと立ち上がりかけたその腕を、とっさに掴んだ。 「ずっと見てたこと、知ってる」  迷いなく、スイッチを入れた。  日頃は動揺の欠片も見せない冷静な顔が、驚きを凍り付かせ振り返る。濁りのない澄んだ瞳が見る見る熱で潤み、形のいい眉が寄せられたと思った次の瞬間、俺はその両腕に捕えられていた。 「水沢……水沢……っ」  ビジネスコミュニケーションに必要なスキルについて流暢に語り講師をうならせていた男が、今は熱に浮かされたようにただ俺の名を読んでいる。熱い腕に容赦なく抱き締められ、包み込まれて、俺の中に溜まった苦味が甘やかな快感に変わっていく。 「好きだ……おまえが好きだ」  耳元に口づけられ切なげな囁きを注がれた瞬間、胸が引き絞られるように苦しくなり、俺は動揺した。  おかしい。これはきっと、期待していたような勝利の喜びじゃない。 「違うっ……俺は、おまえなんか……っ」  好きだ、と何度も繰り返す男に、首を振り必死で言い返す。  藤堂がそばにいる限り、俺はこの苦く重たい感情にがんじがらめにされる。  わかっているのに離れたくないと思ってしまうのは、どうしてなのだろう。  この甘美な感情が勝利の喜びでないのなら、一体何だというのだろう。  そうしてしまったら完全に負けだとわかっているのに、そうせずにはいられなくて、俺は宙に浮いていた手をたまらず相手の背に回した。 「大嫌いだ」と言いかける一言を、強引なキスで奪われる。  敗北を受け入れ瞳を閉じると、気付こうとしなかった甘い切なさが、傷だらけになった心をいたわるように包み、瞼の裏を熱くした。 ★END★ ※お題:「薔薇」「嫉妬」「窓」

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