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予知夢

 どうせみるなら不吉な夢より幸福な夢の方がいい。でも、あいにく俺がみる夢は、人が死ぬ夢だ。  ご丁寧にも何年何月何日という年月日付きで、身の回りの人の死の映像が睡眠中に夢として現れる。その悪夢は前触れもなくふいにやってきては俺の眠りを妨げ、大切な人を現実に奪っていく。  最初は10歳のとき、両親が事故で死ぬ2日前にその夢をみた。悪夢が正夢となり、もしかしたら悪い未来を予知してしまったのではないかと怖くなった。1回だけなら、ただの記憶の混乱や偶然だと流せたかもしれない。だがその後も、身内や友人など身近な人の死ぬ夢が現実となっていった。どうあがいても阻止することはできなかった。  死神の決めたスケジュールを、人間が変えることはできないらしい。 「そのうちさ、本当に予知してるのか、それとも俺が夢をみるからみんなが死ぬのか、わからなくなったんだよね」  やけに苦いビールのジョッキを一気に開け虚しい薄ら笑いで秘密を語り終えた俺を、向かいの席に座った彼は静かな瞳でじっとみつめていた。男らしい美貌は仕事中と変わらずポーカーフェイスで、寡黙な眼差しからその内面を読み取ることは難しかったが、ただそこにいるだけで不思議と安らぎを感じさせてくれる人だった。  近しくなった人が死ぬ夢を見るのが怖くて、バイト仲間の誰とも打ち解けず愛想笑いのひとつもしなかった俺の面倒を、根気強く見てくれた店長の彼。無口だが実直・誠実で、誰もが嫌がる汚れ仕事も率先して片付けていた。バイト仲間全員に慕われ尊敬される彼が、なぜか天邪鬼な俺のことを気遣ってたまに声をかけてきた。「大丈夫か」とか「困ったことはないか」とか。氷の石みたいにカチカチになっていた俺の心は、その深い瞳でみつめられ、優しい言葉をかけられるたびに表面がほんの少しだけ溶けるのだ。  今夜、初めて彼に飲みに行かないかと誘われたときは素直にときめいた。そういうことを誰にでも言う人ではないと知っていたからだ。胸がふわっと浮くようなやわらかな感情が、砂漠みたいに乾き切った自分の中にまだ残っていたのが不思議だった。  それほど気になってしまう相手だからこそ、遠ざけなければいけないと思った。誘いを受けたのはそれを伝えるためだったが、もしかしたら本当は、少しだけ甘えたくなったのかもしれない。  たったひとりで背負うには、この荷物はあまりにも重すぎるから。 「気持ち悪いだろ? だから松井さんも、もう俺に近付かない方がいいよ」  彼が死ぬ夢をみるくらいなら、ここで完全に縁を切ってしまう痛みなんかどうってことない。もう二度と話しかけてくれなくても、深い海のような眼差しでみつめてくれなくても構わなかった。  相槌も打たず黙って俺の話を聞いていた彼は、ポツリと言った。 「おまえ……つらかったんだな。大変だっただろう、ひとりで」  冗談だろうと笑い飛ばしも、頭大丈夫かと引きつった顔でまじまじとみつめたりもしなかった。ただいつものように静かな声でそう言って、空になった俺のグラスにビールを注いでくれた。  俺は答えに窮し、口を閉ざした。心を固めていた氷がぱらぱらと砕け散る音を聞きながら、白い泡が繊細な琥珀色の中身を守るように覆ったそれに口をつけた。さっきまでは苦さしか感じなかったのに、今度は優しいまろやかさが舌に広がった。 「北原」  俺の名前を呼ぶ、彼の声が好きだ。呼ばれるたびいつでも、死んでいた胸が微かに震える。 「もう、ひとりにはしない。俺がそばにいてやる」  そして、つき合ってほしい、と彼は言った。なんのてらいもなく、言うべきことを当然口にしただけだというように、ごく自然に。 「は? なに馬鹿言ってんだよ。断る」  俺は答えた。彼の真剣な眼差しから目を逸らし、投げやりに笑って。心ごと全身が震えるほどの切ない嬉しさよりも、大切なものを失ってしまう痛みを味わわされることの方が怖かった。     だが幸いなことに、俺が彼の死を予知する機会はやってこなかった。死神にも温情はあるのか、20年間の最低の人生からやっと解放してもらえるときがきたのだ。  どんなに待っていたことだろう。俺自身が、この世界から消える日を。    開けたドアの前に立っていた男を見て、死を受け入れ再び石になってしまっていたはずの心臓の鼓動がトクンと音を立てた。心配そうに眉を寄せていた美貌が、俺の顔を見て安堵に緩む。 「どうした、急に辞めるなんて。驚いたぞ」  彼が本社の研修で留守にしている間に、俺はバイトを辞めていた。いつのまにか消えていたい、そう思ったからだ。 「ああ、ちょっとな。あんたには世話になったけど、事情があって。気にしないでくれ」  適当に言葉を濁し視線を合わせずドアを閉めようとするのを、彼の足が阻み強引に体を割り込ませてくる。 「理由を聞かせろ。おまえに辞めてほしくない」  両肩を捕まれ、視線を合わせられる。まっすぐな澄んだ瞳。口数が多くない分だけ、彼の言葉は飾りもなくストレートに凍った俺の胸を射る。  ああ、俺はこの人のことが本当に好きだったんだな、と素直に思ったら、胸が引き絞られるように苦しくなった。  彼を失わなくて本当によかった。これでもう、毎晩彼の夢をみてしまうかもしれない恐怖に苛まれなくてすむ。最期に、こうして彼が会いに来てくれた。それだけでもうなんの未練もない。 「もしかして、この間話してた夢の関係か? 一体何があった?」 「松井さん、俺、今夜死ぬんだわ。夢でみたんでね」  俺の一言に、彼は思慮深い瞳を大きく見開く。 「だから、迷惑かけたくないんで。もう帰って」 「何を、言ってるんだ……」  呆然とつぶやく唇。無駄にショックを与えてしまったことを後悔する。  できれば信じないでほしかった。頭のおかしいヤツが世迷言を言ってると敬遠されれば、むしろその方が気が楽だ。 「来てくれてサンキュー。でももう、俺のことなんか忘れて……」  それ以上は言えなかった。彼がふいに俺の腕を掴み、強引に引き寄せたからだ。 「えっ、何……っ」  他人の体温に慣れていない俺はうろたえ逃れようとするが、彼はしっかり俺を抱いたまま放そうとしない。 「誰にも、連れていかせない」  熱のこもった言葉が届いて、胸が今さらのようにトクトクと鳴り出した。 「もう、ひとりで苦しむのはやめろ。俺がいる。ここに、おまえのためにいる。おまえはもう、ひとりじゃない」  大切な人達がどんどんいなくなっていって、いつのまにかひとりになった。運命なのだと諦めて、ずっとひとりで生きてきたから、たったひとりで死んでいくことは、俺にとっては当たり前に受け止めてきた自分の未来だ。  それが揺らぐ。力強い言葉と、伝わるぬくもりが、封印してきた本当の気持ちを強引に引っ張り出そうとする。 「助けてくれと言え。死にたくないと言え。北原!」 「……こわい……」  我知らず消え入りそうな声が出て、それを合図のように全身が震え出す。そして、俺は自覚する。  今自分の体を包んでいるこのぬくもりを、本当はどんなに欲していたのかを。そしてひとりで死んでいくことが、どれほど不安だったのかを。  抑えようのない恐怖にかられ、俺は彼の背に手を回した。 「松井さん……俺本当に、死ぬのかな……? こわいんだ……ひとりでいくのが……」 「大丈夫だ」  自制がきかず勝手に溢れ出してしまう本音を、力強い声が遮る。 「どこにもいかせない。俺が、違う未来を見せてやる」  囁きと共に深い口付けに唇を奪われる。瞳を閉じ逞しい腕に身をまかせると、全身をがんじがらめにしていた不安が次第に静まっていった。    他人の体温が気持ち悪いだなんて、どうして思っていたのだろう。肌と肌を重ね合わせ、あますところなく触れられて、体の奥深くで彼を感じながら  俺は初めて自分が生きていることを実感していた。 「大丈夫か」「痛いところはないか」「どこか苦しくないか」  俺がまだ生きていることを確かめるように、繊細な指先で触れ唇で愛おしげに啄ばみながら、彼は何度も耳元で聞いてくる。 「大丈夫だよ」「ありがとう」「会えて嬉しかったよ」  彼の背にしがみつきながら、俺は答える。今までで一番、素直な気持ちと、素直な言葉で。  いつのまにか意識が遠のいて、ああ、このまま死ぬんだなと思っても、もう全然怖くはなかった。彼がしっかりと手を握っていてくれたからだ。  最期の夢の中、俺はなぜか彼と一緒にいた。人気のない浜辺を、ふたりで手を繋いで歩いていた。上空には暗い雲がかかっていたが雨は降っていない。波は静かに、穏やかに打ち寄せている。少し離れたところに遊覧船が見える。あたたかいパステルカラーの、とても綺麗な船だ。  俺は彼に波をかけたり、じゃれついたりして笑っている。自分でもびっくりするくらい明るい笑顔で。そんな俺を優しい目で見ながら、彼も珍しく声を立てて笑っている。  視界の先を遊覧船が動き出す。甲板から笑顔で手を振ってくる人がいる。よく見ると乗っているのは父さんや母さん、俺の大切な人達だ。少しずつ遠くなっていく遊覧船は、キラキラ光る水平線の彼方へと進んでいく。  なんだか少しだけ寂しくなって、空を見上げた。真っ黒な雲は次第に薄くなり、いつのまにか見えなくなっていた。浜辺には穏やかな日差しが降り注ぎ、目の前で微笑んでいる彼が、帰ろう、と言った。      不思議な夢から俺の意識を引き戻したのは、カーテンを引く音だった。目を開けると、ジーンズだけはいた彼が窓辺に立っていた。 「おはよう」と振り向く、優しい笑顔。 「俺……生きてるね……」  確かめるような俺の言葉に彼は頷き、カーテンレールに縛り付けられていたビニールロープを解き取る。いつでも首を吊れるようにと俺が下げていた紐は、明らかにその意図がわかる形状に結ばれていたのに、彼は何も言わずまとめたカーテンをそれでくくった。やわらかな朝の日差しが部屋を満たす。 「今日はいい天気だ。食事がてら、どこかに出かけるか」  まるで何事もなかったかのように微笑んで言う彼の顔が、急に霞んだ。 「海に、行きたい」  零れ落ちる涙を指先で拭い、俺は笑って言った。  ふたりでおいしいものを食べて海に行ったら、今朝方みた夢のことを話そう。そして、これまで想像しようともしなかった、未来のことをたくさん語り合おう。  彼といれば俺はもう、悲しい夢をみることはないだろうから。 ★END★ ※お題:「未来」

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