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黒鳥の湖 15

「すまない」 「いえ、お怪我がなくて何よりです」  明らかに様子の違う時宝を窺うようにして、黒手がその手の中の小瓶を受け取ろうと手を伸ばしたが、時宝はさっとそれを避ける素振りを見せた。一瞬のその動作は時宝自身も意外だったらしく、狼狽えたような顔をして慌てて黒手へとそれを差し出す。 「よろしいですか?」  そう言われて時宝は神妙な顔で頷きながら小瓶を手渡そうとしたのに、指先が名残惜し気に深く入れられた彫りを引っ掻いた。  そのために取り落としそうになった小瓶を慌てて黒手が拾い上げて膳の上へと戻す。  それを見ながら、あれほど高鳴っていた胸の音がどんどん萎んで小さくなって行くのを感じる。下げた視線の先にある膝の上で揃えた指先から血の気が引いて、冷たくかじかむようだった。  今までのお客達と同じ言葉が出るのを聞きたくなくて耳を塞いでしまいたかったけれど、骨まで滲みた躾のせいで手を膝の上から動かすことが出来ない。 「  ────蛤貝、お前を選ぼう」  はっきりとした言葉は、先客の神田様と同じ言葉で……  神田様の時には感じなかった奇妙なほどの落胆に自分自身が戸惑った。 「ありがとう存じます」  手を突き深く頭を垂れる黒手が涙で滲みそうになって、慌てて目をしばたかせてそれを堪えるけれど、どこまで誤魔化せたかはわからない。  ただ、もしかしたら と思っていた淡い期待が消えてしまって、震え出しそうだった。 「  ところで、ここのオメガは、子を産ませたからと言って愛人を持ってもうるさくは言わないのか」  追い打ちのように続いた言葉に、ぐっと喉元が締まった気がする。  生涯に一度だけ、項を噛んだαを番にするΩと違って、何度でも項を噛めるαは多数の番を持つ人も少なくはない。特に金に余裕のある上流のαには多いと聞くけれど。  こうやってはっきり聞かれてしまうと、こんな人なんだ と胸の内が冷えるような感覚になる。 「それ と、これ は、別問題でございますから、私共は飽く迄お子様を得るためのお手伝いと言う立場ですので、奥様がいらっしゃろうとも、恋人を侍らされていようとも、時宝様の痴話に関しましては何も口を挟む立場ではございません」 「そうか」  子供だけが欲しいと言い、愛人を持つと宣言した……何よりもオレを選ばなかった人間なのに、その視線から外れてしまうとうら寂しくて……  時宝が蛤貝の方へ視線を遣るのを見たくなくて、瞬きに隠して視線を下げた。  赤い提灯に火を入れて、時宝をお見送りするのはまたも選ばれなかったオレの役目で、傷を抉られる気分のせいか時宝と会話をする気にはなれない。 「発情剤と言う手もあるのに、どうしてこんなまどろこしいことをするんだ。今日ここに来る時間を作るだけでもどれだけ苦労したか  」

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