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黒鳥の湖 78

 すっと冷たくなった指先を握り込み、取り乱しそうになったけれど咄嗟に息を詰めてそれをやり過ごす。ここで慌てて扉に縋ろうものなら、薄墨の思うつぼだと思ったからだ。  何を考えて蛤貝に入れ知恵をして、何を思って時宝が契約破棄をしたことを教えてきたのか、オレには何もわからなかったがそこに良心しかなかったとは思えない。 「時宝様には一切の非がないのだから、それは当然のことでしょう」 「随分とご立腹だったって話だが……契約がなくなったんじゃあなぁ?蛤貝とお前はどうなるんだろうな?」 「…………」  ほくそ笑む表情はオレが未来を考えて絶望する姿を望んでいるようであったけれど、オレは溜め息しか出なかった。  腹に手を当てて、そこに息衝く命に支えられるようにしゃんと顔を上げて薄墨を睨み返す。 「そんなことを覚悟もしないで入れ替わったと思ってるの?」  自分で思ったよりもはっきりとした声に自分自身で驚いたけれど、なぜだか薄墨に言い返すことに気後れすることはなかった。 「オレは時宝様に身請けして欲しいとか、そんなことは思っていないよ」  たった一度、思い出が欲しかっただけだ。  なのに、  首を噛みたいと言ってくれて、  子供を残して行ってくれて、  望んだ以上のことを貰えて、それで十分だ。 「だから、これから下の部屋へ移されるとしても、本望だ」  怒鳴ったわけではないのに薄墨は怯んだようにわずかに扉から身を離した。 「……番から見放されて、初めて会うような奴らに犯されて孕まされるのが本望だって?」 「    ああ」  それが望みかどうかで言われたら違うとしか言いようがない。  叶うならばこの体には時宝だけが触れて欲しい。 「オレが時宝様に選ばれなかった時点で、触れて欲しいなんて願いは本来叶うことはなかったんだ。それが一度でも叶ったんだから、相応の対価を払うのは当然でしょう。それが、下の部屋に行くことなら甘んじて受け入れるまでだ。オレの覚悟はそんなことを言われて揺らぐようなものじゃないよ」  唇をぎゅっと引き結んで薄墨を見詰め続けると、小さく息を飲みこむような気配が届いて絡むようだった視線がふつりと途切れた。  ふっと圧迫感がなくなった気がして、大きく息を吸い込む。 「   下の部屋に堕ちても、そんなこと言ってられるか見物だな」  吐き捨てられた言葉はオレを傷つけるのが目的と言うよりは、ただの負け惜しみのように思えた。  反省室から出るように言われて、オレを迎えに来た黒手が気まずそうにそろりと時宝のことを告げた時、事前に聞いていたせいもあるのだろうけれど自分で思うよりも冷静だった。

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