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落ち穂拾い的な 黒手
「社長、お客様がお見えですが 」
歯切れの悪い言葉に兄は深い眉間の皺を更に深くして、書類にサインをしていた手に力を込めた。
そうすると呆気ないほどの小さな音を立ててペンに亀裂が走り、小さな破片がポロリと零れ落ちるのを、何本目だったかと思いながら眺める。
「 放っておけ」
自分の態度で誰が訪れてきたのか十分に分かったらしい兄は、一瞥もせずにそう言い捨てると新しいペンを引き出しから取り出す。
そして何事もなかったかのように仕事を再開するのを、黙って見ているしかできなかった。
めでたい日だと朝から機嫌がよかったはずなのに、ほんの少し小腹を満たしている間に兄の機嫌が奈落の底まで落ちており、能天気な尊臣ですら怯えさせたのは先日のことだった。
それに加えてアポイントメントすら取らずにやって来た『盤』の関係者のことを考えると、そこで何かが起こったのだろうと言うのは見当が付く。
けれど、長兄と言う立場柄なのか兄が僕に悩みごとを話すことは滅多になくて、何があったのかはさっぱりだった。
どうしたものかと頭を悩ませながら応接間で待たせたままの客……黒手?だったか?の元へと向かうと、青白い顔をした黒手がぴくりともせずに座っている。
「 ────大変申し訳ありませんが、時宝は多忙でございまして、お待ちいただいてもお会いになれるかは……」
兄の頑固さを思い描き、その可能性が少しでもあればいいなと祈る。
「待ちます、ほんのわずかでもお話を聞いていただけるなら 」
黒い服を着ているせいか、肌の青白さが際立って今にも倒れてしまいそうに見えて……申し訳ないと思いつつも、兄を説得できる言葉を見つけることができない僕はただ頭を下げるしかできなかった。
きつく目頭を押さえる姿に、「もうそこまでにしたら?」と声をかける。
「うるさい」
ストレスを仕事で解消しようとするのは良くないことだと常々言ってはいるのだけれど、兄は僕の言葉を聞く気がないらしい。
一瞥すらもない姿に溜息を吐きながら、「まだお待ちですが」と言うと哀れなペンがもう一本砕ける。
「…………」
ちらりとブラインドを降ろした窓を見、それから時計を見て深い溜息を吐く。
正直、溜め息を吐きたいのは僕なんだけど……
「帰ってもらわないと守衛から文句くるよ?」
「…………」
開きかけた引き出しを思い切り閉め、兄は「ペンの予備がない」と低い威嚇するような声で言ってから、荒々しい足音を立てて部屋を出て行く。
「ペンを取りに行ったって、わけじゃないだろうね」
肩をすくめて慌てて後を追いかけると、応接室の扉を睨みつけている姿が見えて……ちょっと落ち着いたらって声をかけようとする前に、勢いよく中へと入って行ってしまった。
中に入るか、入らざるべきか、迷っていたけれどあの今にも消えてしまいそうな風情を見ていると、援護しなくてはと言う思いに駆られて飛び込むことにしたが、床に伏している黒手の姿を見て思わず立ち竦んだ。
さすがに自分より明らかに弱いと分かる人間に問答無用で手を上げるなんてことはないと思いたかったけれど……
相応の跡取り教育の一環として格闘系の習い事もしていた兄が手を上げたなんてなれば、シャレにならない。
「 ────この度は、大変申し訳ないことをいたしました」
青くなった僕の耳に届いてきたのは謝罪の言葉で、伏しているように見えたのは平身低頭を表したように、土下座をしていたためのようだった。
立場柄、人の土下座を見ることはままあるけれど、額を擦り付けるほどは……
「安っぽい土下座だな」
「お怒りは重々承知しております。時宝様にはご不快な思いをさせてしまいましたこと、何を以って謝罪すればいいのか」
「謝罪は必要ない。失せろ」
「ごもっともでございます。ですが、」
「『ですが』?笑わせるな、出ていけ」
ぐ と言葉を飲み込む黒手に駆け寄り、体を起こすように促すけれど首を振られて断られてしまった。
普段、傲慢で偉そうだけれどむやみやたらにこんなことをするような兄ではない。
『盤』との間に飲み込み切れない何かがあったのはわかるけれど……
「兄さん、話しぐらいは聞いてあげたら?このままじゃ黒手さんも帰らないと思うし」
冷ややかな目で睨まれると、幼い時から傍に居る僕でもぞっとなるんだから、黒手だとどれほど怖いのか。肩に置いた手から伝わる震えには同情するしかない。
「…………座らせろ」
奥歯からぎりぎりと音を立てるんじゃないかってくらいしかめた顔でそう言うと、不機嫌さを隠しもしない態度でソファーへと腰を降ろす。
「この度は 」
「くだらない謝罪なら必要ない」
一瞬言葉を失ったように見えたけれど、黒手はそれでも言葉を紡ごうと顔を上げる。
「蛤貝は……『盤』ではあってはならないことではございますが 」
「その部分の説明はもう十分だ、他の噛み痕がついたオメガに興味はない」
バッサリと切り捨てる様は、目の前で運命の番を掻っ攫われたαには見えなくて……
どちらかと言えば、那智黒が客を取ったと知った際の取り乱しの時の方が余程それらしい。
αは共有を嫌うと言うけれど、それを押してでも那智黒を手に入れようとした姿は、客観的に言わせて貰えるならばそちらが運命だと言っていいだろう。
「では……」
青い顔色のまま、黒手はぐっと唇を引き結ぶと「那智黒でございますが 」と呟くように話し出す。
蛤貝ではなく那智黒?
兄の子を産むと契約を交わしたのは白い服を着た彼だったはずだ。
「那智黒は、騙したくて騙したわけではなく」
「では、なんの下心があったと言うんだ?何も思わず蛤貝の代わりに抱かれたと?」
「⁉」ってなった僕を睨みつけて、兄は威圧するように足を組んで黒手を睨みつける。
可哀想に、床に座りながら見上げる兄は逃げ出したいほど恐ろしいだろうと想像がついて、ソファーを勧めてはみたがまたも首を横に振られてしまった。
「那智黒は、時宝様に思いを寄せておりました。ですが……私達には旦那様を選ぶことはできません。ましてや時宝様が蛤貝を選ばれたなら自分にその希望がないのは明白」
窺うような黒手の視線に返事を返さないまま、顎をしゃくって続きを促す。
「ですから、蛤貝の提案に乗って……せめて一度だけでもと、望んだそうです」
「俺は那智黒を身請けすると事前に伝えていたはずだが?」
「『盤』の契約は一度につき一人でございます。存在しないものの話をすることはございません」
「…………では、蛤貝を選んだ俺の失態だと?」
「っ! 申し訳ございません、けしてそのような意味では!ただ、那智黒の思いだけは疑わないでやって下さい!あの子は、ただただ時宝様を慕っていただけなのです!」
慌てて取り繕う黒手を力ずくで負い返すんじゃないかとハラハラして見ていたけれど、むっつりと黙ったまま腕組をして動かない。
黙ってしまった兄を見て、ぶる と震えが大きくなるけれど黒手は引かなかった。
「お怒りは 承知しております。ですが お願いします、このままでは那智黒は、いえ那智黒だけでなく ────」
震える唇から出た小さな言葉は僕には届かなかったけれど、兄には届いたらしい。
いつもすがめるような、世の中を斜に見るような目がみるみる見開かれて……
ソファーを蹴り上げるようにして立ち上がった兄の顔色が真っ青になって、今度は兄が震える番だった。
「お願いします、お願いでございます!お怒りはごもっともでございますが もう一度、『盤』と契約を結んでいただきたくお願い申し上げます」
これ以上擦り付けようがないだろうに、黒手は額を床につけて懇願する。
その姿の必死さはただの世話役の範疇を越えているように見えて……
「新たな契約を結びたいと言ったのを拒否したのはそちらだろう!」
「そんなっ ……っそれは、先黒手の判断となりますので……」
増々顔色を悪くして呻く黒手を見るに、ここに来たのは彼の独断だったようで兄の言葉を聞いて今にも崩れ落ちそうだ。
「何か手はないのか?」
「手……」
色がなくなってしまった顔を伏せて黒手は首を緩く振る。
「先黒手が判断した以上…… いえ。余程影響力のある方から口添えしていただければ、あるいは」
「俺を紹介した奴では 」
緩く首を振られて押し黙る。
青い顔の人間が二人に増えたところで、そろりと口を挟んでみた。
「 ────あの、」
むっつりと黙りこくっている兄を見て黒手は機嫌を損ねてしまったと思ったのか、ソファーから心配そうな視線をちらちらと送っている。
心配しなくとも少し前の黒手とした会話を反芻して機嫌よくしているだけなのだと、教えてあげた方がいいのかもしれない。
慕って貰えて、思いを寄せて貰って、僕に言わせると左右に振れる尾が見えるんじゃないかってくらいご機嫌だ。
ましてや、「男か 女か 」なんて呟くものだから、僕が聞き逃した部分が何だったのか分かるものだ。
「 ────っ」
手の中で鳴り出した携帯電話に飛び上がらんばかりの勢いで出ると、向こうの話を聞いてほっとしたのかソファーにぐったりと背中を預けてしまう。
ぐっぐっと目頭をきつく押さえながら、電話相手に相槌を打っては小さく感謝を挟む。
立場的に、人に弱みを見せるな と、散々父に言われてそれを是としていた兄のそんな姿を見るのは初めてかもしれなかった。
「御用意します。明日にでも────はい、ありがとうございます、感謝します、大神社長」
はぁ と深い息を吐きながら携帯電話を放り出すと、兄は黒手に向かい「話はついた」と短く返した。
緊張が緩んでひどく疲れたように見えたが、こんな時間に直接話が出来るとは思っていなかったためか兄の表情は思っていた以上に明るい。
仲介してくれた秘書仲間には礼をしなければならないだろうが、滅多に見ることのできない穏やかな兄の表情を見ることができたのだから安いものだ。
「奏朝。朝一番にクロノベルに保管してあるバース性の遺伝子記録と追跡記録を向こうに渡してくれ」
「それ って……父さんが蹴ってた話だよね?」
口添えできるほどの人物を と考えた際に思い出したのは、パーティーで那智黒と話をしていた人物だった。
もしかして那智黒の客とはこの人なのか と思って、ぞっとしたせいか印象に残っていただけだったのかもしれない。けれど様々な噂があるだけに適役ではないかと言う思いもあって……
正直なことを言えば、様々な噂のある人だけに借りを作りたくない相手ではあったけれど、顔を青くして取り乱すほどなのだから最終判断は兄がするべきだ。
「そんな情報を出していいの?」
「共同研究と言う名目を立てればどうとでもなる。あちらはオメガ研究にずいぶんと熱心と聞くしな」
息を詰めていた黒手がはぁ と肩の力を抜いて頭を下げる。
「時宝様、ありがとうございます。この御恩は必ずや 」
「いや こちらとしても、いいきっかけとなった」
古株たちを説き伏せるのは骨が折れそうだったが、それも時代の流れを考えればいつかは必要なことで、そう考えると今回のこれはただ後押ししただけだ。
「 ……きっかけ」
人間らしい顔色に戻った黒手が、引っ掛かりを覚えたようにそう呟いてぐっと唇を引き結ぶのが見えた。
END.
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