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雪虫2 29
タッパー容器を取り出そうとしていたが、手前に入れてあるお土産のケーキの箱が邪魔なのか一旦それを取り出そうと手に取る。
「こちらのケーキは美味しいですね」
「なん?気に入ったん?」
オレがチーズケーキが好きだと言ってから、みなわはまめにここのケーキを買ってきてくれる。だから皆ここのケーキ屋が美味しいってわかっていて、特に直江はこれを貰うと少し機嫌が良くなるようだった。
厳めしい姿をしていても、一番の甘党なのかもしれない。
冷蔵庫から取り出したケーキの箱を直江から受け取り、みなわはちらりと不自然に視線を動かす。
「そうですね、いいお店だと思います」
「そうなん」
直江に返事をしつつもその視線の先にあるのは、直江がもしもの時のために とすぐ取れる位置に置いてあるα用緊急抑制剤で……
ざわ と
何を感じたのかと問われたら答えることは出来ないのだけれど、
「 ──────── な」
問いかけの言葉は最初の一音で途切れて……
みなわが手の中の箱を床に叩きつける姿だけが、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
ケーキの箱からガラスの砕ける音が響いて、次の瞬間にはきついきつい……薔薇の香りだ。
「 ……ば っ 」
オレの隣でぐぅっと吐き気を堪えるような喉が鳴る音が響いて、ずるりと直江の体が崩れ落ちる。
辛うじて体を腕で支えるものの、その横顔は汗でぐっしょりと濡れていた。
「く、す 」
何が起こったのかは理解できなかったけれど、直江が手を伸ばした先のα用緊急抑制剤を求めているのは、考えるよりも先に理解できた。
むせ返る、薔薇の濃い……
薔薇の……
Ωの、ヒートフェロモンだ!
「しずる⁉」
セキがオレの名を呼ぶけれど何故だか水の中から呼ばれているかのような、ぐわぁん と脳の中で響くような音で、それがオレ自身の名前だと気付くのに随分と時間が必要だった。
口の中が、唾液で溢れる。
脈拍が急に跳ね上がったせいか目が回る。
飢えていないのに、飢餓感が襲ってきて……
抑制剤を服用していたお陰か、辛うじて残っていた理性を総動員して薬に向かって手を伸ばす。
「 っ! 」
棚に置かれたα用緊急抑制剤にもう少しで手が届く と、その瞬間視界からそれが消えて手が空ぶった。
ヒートフェロモンのせいで煮えるような頭のせいで、それがどうしてだかわからない。けれどセキの「返してっ!」って叫び声で辛うじて理解することができた。
セキが、みなわの腕から注射器を取り戻そうとして振り払われて……
水を隔てたような世界は何もかもが緩慢で鈍くて、突き飛ばされてセキが棚にぶつかるところがコマ送りのように視界に映る。
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