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雪虫2 32

 ぎり と奥歯を噛み締めて、腹に力を入れるようにすると相手の言葉はもうオレには届かない。  オレをその場に留めようとするねっとりとした気配を振り切るように足を動かせば、その男の所まではあっと言う間で…… 「  ────っ」  止まらないオレを見てはっと揺らいだ目を見た瞬間、どうしてその男のことが分からなかったのか理解が出来なかった。 「あんた……」  左目の上にある傷跡、顔は……? 「あんた  ?」  思わず言葉がポロリと零れた瞬間、振り上げた拳の勢いが削がれてしまう。  あっと思った時にはすでに遅く、水谷との練習で幾度も経験していたはずなのに、横から来る蹴りに対処できなかった。 「  ぁ゛っ!」  骨の芯に響くような蹴りに蛙がひしゃげたような声が零れ、吹き飛んだ先は瀬能の足元だった。 「しずるくんっ!」 「くっ  」  強かに頭を打ち付けたせいか視界がブレてぐるりと世界が回るような、そんな気持ちの悪さに倒れ込む。  小さな悲鳴のようなか細い雪虫の悲鳴がオレの名前を呼んで……  吹き込む風に煽られて翻るカーテンの隙間から、笑みの形に歪む男の口元が見えたのが最後だった。  小さな白い手が、助けを求めて伸ばされたのに……オレは…………  瀬能に頬を叩かれた時、オレは状況を飲み込めずに小さく呻いた。 「大丈夫かい?」  こちらを覗きこむ瀬能の顔は暗く、その表情は読み取れない。 「  な、ん」  何が起こった?  と問いかけるよりも先に、白い手が脳裏に蘇って飛び起きる。 「雪虫っ!」  そう叫んだはずなのにひぃ と悲鳴のような空気が漏れただけで、言葉になったのかは怪しかった。  ザァ と血の気の引く音と、「急に起きちゃダメだ」って言う瀬能の音が遠くに聞こえて、体中が震え出す。  何があった?  トラックが突っ込んできて?  扉が開いていて……  それから 「雪虫……」  ぞわ と火箸でも押し付けられたかのように体中に鳥肌が立つ。  急に動くなと言う言葉を振り切って立ち上がると、そこはがらんとした雪虫のいない部屋で…… 「ぃ 行かなきゃ ゆき 雪虫  っ」  開かれたままの二階の窓から飛び出そうとしたオレの腰に瀬能が飛びつき、渾身の力を込めて部屋の方へと引き摺り込むと、滅多に見ない険しい表情で緩く首を振る。 「走って追いかけても追いつけないよ」 「やってみなきゃわかんないだろっ!」  大人の男の体はオレのものより幾分もがっしりしていて、必死にその腕から逃れて飛び出そうとするのに、幾ら暴れても瀬能の腕は緩むことはなかった。

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