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落ち穂拾い的な 大人の役目

 夜の病院は気味悪いと言うけれど、この深海を泳ぐ魚の気分で明かりの落とされた中を歩くのは気に入っていた。  妙に足音が響くのも、なんとなく耳に心地よく思う。  ネームプレートはなく、代わりに犬の可愛らしいシールの貼られた病室をノックもせずに開けると、廊下よりも暗い病室の中でがっしりとした男がベッドの上に座っているのが見えた。 「やぁ、よかった。起こしたって訳ではなさそうだね」 「ええ」  近づくと大神が狭くないようにと入れた大きなベッドの上にもう一つ山が見えて、それがスウスウと健やかな寝息を立てながらうずくまるようにして眠っている。  目の縁を赤くしたセキはぐっすりと眠っているようで、来客にも気づかないほどのようだ。 「ちょっと。ここでやらしいことしないでよ」 「すみません」  遅かったってことか……  狭くないようにと大きなベッドを入れたのが悪かったらしい。 「まぁいいよ。ちょっと一緒に雪虫のところに来てくれるかな?」  特に理由を言ったわけではないのに、大神は何か心当たりがあるとでも言いたげな顔で頷いて立ち上がった。  昔から妙に勘のいい、悟った子だと思っていたけれど今回のことに関してはどれだけわかっているんだろうか? 「すまないね、君もゆっくりしたいだろうに」 「いえ」 「すぐに済むと思うよ。ちょっと雪虫に向けてフェロモンを出してもらえたらそれでいい」 「…………」  幼い頃は表情のくるくる変わる可愛らしい子だったが、いつの間にこんな鉄仮面のようになったのか。 「……堕胎のため、ですか」  疑問形でないところを見ると、やはりわかっていたようだ。 「うん。携帯電話も持ってないのにコンドームを持っているとは思えないからね」 「それはそちらの領分でしょうに」 「薬を使えないあの子にはこれが最善だよ。アルファがマーキングして自分のオメガに他のアルファを近づけさせないのは、他のアルファフェロモンによる着床の妨げを防止するためなんだよ。オメガの巣作りは番の匂いで覆うことによって他のアルファのフェロモンを遠ざけ、着床阻害の阻害を目的とされているんだ」 「…………」  さすがに、今回はうんざりした顔で煙草休憩には行かないらしい。 「雪虫がアルファを怖がって近寄らないのは、アルファフェロモンに曝されるのを恐れる本能なのかも。雪虫みたいな弱い個体は何かあったらすぐ影響が出るからね。あと雪虫はもしかしたらアルファ因子の強弱で人を認識しているかもしれない、君や直江くんは区別がついているようだけど、ぼくのことは視界に入っていないようだからね」 「それだけ、フェロモンに敏感だと言うことですか」 「うん、アルファに優性の強い弱いがあるように、オメガにもあるのだとしたら雪虫は優性が強いのかもしれないね」  詰所側の戸の前に立つと、夜勤の看護師がハッとこちらに駆けてこようとしたのが見えた。  それににこやかに手を振ってやると、一瞬ためらったがすぐに詰所の方へと帰っていく。 「オメガにもあるんですか」 「あったとしたらの話だよ。それにあったとしてもアルファと同じで優れているって言う訳じゃない」 「…………」  いい加減うんざりしたのか、大神の目の光が鈍い。 「勘違いしている人が多いけど、アルファの優位性って言うのは、優れてる優れてないの序列のことじゃなくて、そうだな……優位性が高いほどオメガフェロモンに反応しやすいだけって思えばいいよ。ただイコール序列って言うのはぼんやりとあるみたいだね、大神くんも直江くんも優位的にはかなり高いはずだよ」 「私もあいつもベータです」 「あ、そうだったね。だから、正確にはアルファ因子の優位性が強いってことだ」  もうそろそろ限界なのか、合いの手も途切れがちだ。 「だから、中にはアルファより優位性の高いアルファ因子を持つベータもいるって言うことだよ」  そう言うと大神はふと心当たりがあるような顔つきになる。 「────じゃあ、一仕事頼むよ」  そう言うと憐れみの感情を隠しきれない瞳がこちらを見下ろした。  静かすぎるせいか、深夜だと言うのに外の音の方が賑やかに思える。  白いベッドに横たわった雪虫は初めて見た時のように、死んでいるのではと思わせるほど生気がなかった。  近づいて初めて、微かに呼吸が荒いことがわかる。 「頼んだよ」  この方法は昔から使われていたし、Ωに対しては一番負担のかからないやり方だと言うのはバース医なら皆知っていることだ。 「  わかりました」  瞳の中の憐れみは消えない。  それは、もしかしたら宿るのかもしれなかった命に対してなのか、または気付かぬうちに子供を失った二人に対してなのか…… 「    お がみ」  微かな声はただの呻きだと思っていたが、硬い横顔が微かに翳ったことで雪虫が大神に問いかけたのだとわかった。  熱のせいか焦点の定まらない両目が開かれて、わずかな光を反射してか青い光がちかちかと瞳の中で瞬く。 「────必要 ないよ、ここには まだ 誰もいない」  言葉を紡ぐごとに大きく苦しげに息を吸い込む様は、弱いながらも懸命に生きようとしているのが見てとれる。  切れ切れの息の下から告げる言葉は、どこか確信めいていて……  けれどそんな言葉を素直に聞くわけにはいかない。  促そうとした時、大神がそれに応えた。 「そうか」  相変わらず大神の言葉は簡潔だし、行動も早い。 「ちょ ちょ 大神くん⁉︎」 「必要はないそうです」 「そんな  」  時折ひやりとさせる硬質な目がこちらを向く。  友人であり、大神の父親とそっくりな無慈悲な瞳は私の言葉を聞く気がないと物語っている。 「……責任は私が取ります」 「取るったって……」  そんな事になったら、誰も責任の取れない事態になる。  それは大神もわかっているはずなのに……  幾ら言葉を募ろうとしても、大神が振り返ることはなかった。 END.

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