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苦い人生 16

   オレのより幾分がっしりとした指があやすように頬を撫でて、機嫌を取るようにちゅ ちゅ とこめかみに口付けて離れていく。 「帰ってきたらゆっくりできるから」 「ん」 「いい子にして待ってろよ?横断歩道はちゃんと左右見て、知らない人にはついて行かない、電車はホームの端で待っちゃダメだぞ?お菓子くれるからってそいつはいい奴とは限らないからな?」 「なんでだよ!幾つの子だと思ってんだよ」  照れ隠しに悌嗣の胸を押しやると、はは とこちらをからかうような笑い声を漏らして、それから大慌てで鞄を抱えて飛び出して行った。  出て行く直前までバタバタしていたせいか振り返った部屋はがらんとしていて、静けさは圧し掛かるように重い。  別に天気が崩れていると言うわけでもないのに、自分の周りすべてが湿っぽく淀んでいるように感じて、堪らずベランダへの窓を開けた。  すっかり夏らしくなって梅雨も過ぎ去ったって言うのに、部屋の中だけどんよりとした雰囲気だ。 「……悌嗣がいないと、  」  つまらないとか寂しいとか、そんなんじゃない。  息が出来ないくらい、苦しい。  階が高いから吹き込んでくる風は心地よくて、さっぱりとしているのにそんなものじゃ気分は晴れなかった。   「────  いってらっしゃい」  マンションから駆け出していく悌嗣の後姿にそう呟くと、まるで聞こえているかのようなタイミングでこちらを振り返り、急いでいるだろうに大きく手を振り返してくれる。    行くなって言ったら出張を取りやめてくれるだろうか?   たった三日。  されど三日。    二人で過ごしていたらあっと言う間に過ぎ去ってしまうし、発情期の際にはほんの一瞬で過ぎ去る時間だ。  それでも、悌嗣の居ない時間だとしたら、長すぎる。  女性客が次の注文を入れた時、思わず眉が寄りそうになった。  少し薄暗い店内でも彼女の顔は真っ赤だったし、それでなくてもぐらぐらと危なっかしく動く頭は今にも伏してしまいそうに見える。  彼女に付き添っていた客も困ったような視線をこちらにちらちらと向けている。  口に出したわけではないけれど、視線で会話をし合って頷いた。   「もう、そろそろ帰ろうよ?」 「やだっ!」  バンっとカウンターを叩かれて、そんなに広くない店内が一瞬静まり返る。連れの女性客がこちらが悪い訳ではないのに、泥酔している客の代わりに必死に周りに頭を下げて小さく体を縮めてしまう。 「らってっ!かえっらってっ!」  帰ったって一緒に住んでいた恋人がいない と。  なんだか気持ちが分かるけれど、彼女の深酒の理由はそれだけじゃないのは、幾度も幾度も呻くように話された内容を噛み砕けば良くわかる。

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