203 / 714

苦い人生 28

 使ってる整髪料の匂いだとか、本棚にある本の匂いだとか、パソコンなどの機械の匂いとか、……それから悌嗣自身の匂い。  他の人に言わせたら皮脂とか汗とか、そんな臭いだろうって言うんだろうけど、オレはこの匂いが大好きだ。  いい匂いに感じる相手って言うのは相性がいいって言うから、バース性を入れずに言うならオレと悌嗣の相性は悪くないはずだ。  ……だから、何も怖いことなんかないよな? 「……オレ達が番だったら、違ったりするのかな?」  気休め程度のネックガードに触れながらぽつりと呟いた。  帰って来た時に見た時計をもう一度眺め、帰宅してからの時間を心の中で計算する。  いや、そんなことをしなくても短針はもうとっくに天辺を回ってしまっていて、報告と引継ぎだけ と言っていたのに遅すぎる時間だった。 「やっぱり、休めなかったのかな?」  オレと違っ会社に勤めている悌嗣の休暇の融通が利かないのは良くわかっているつもりだ。  でも、せめて一言電話でもくれていたらと思ってしまうのは我がままだろうか?  もう一度ちらりと時計を確認するも、ついさっき見たばかりの針はまったく進んでいない。 「…………」  迷惑になるだろうか……と言う気が過らなかったわけではないけれど、慣れ親しんだ家に独りと言うのに耐え切れなくなり、廊下に落としたままの鞄を拾い上げると玄関を飛び出した。  悌嗣の会社にまで行くつもりはなかったけれど、せめてその傍で待っていたら少しでも早く悌嗣と出会えるんじゃないかって、希望もあって。  会社の場所は以前に近くをたまたま通った時に、ここがそうだよって悌嗣が教えてくれていたから迷うことはなかった。  オフィス街は思ったよりは人気が多くて、固い恰好の人間ばかりだと思っていたけれど、そうじゃないことにほっと安堵する。  見上げると首が痛くなりそうなビルを抜けて、悌嗣が教えてくれた会社の傍まで行く。  不審者と言われないように、たまたま通りかかりましたよって風を装ってちらりとそちらを見るけれど、当然のことながら中までは覗けなくて項垂れるしかできない。  どこか長時間居座れそうな店か何かないかと見回していると、オフィス街には似つかわしくない甲高い声が背中から聞こえて思わず飛び上がりそうになった。   「  ────  なんでっ!」  絹を裂くような と言うけれど、キン……と鼓膜に突き刺さるような尋常ではない取り乱しをした人間の声は、どんな状況で聞いても身を怯ませるには十分で……

ともだちにシェアしよう!