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苦い人生 29

   思わず肩をすぼめて振り返ると、悌嗣の会社の入り口から飛び出した人が大きくバランスを崩して倒れ込む所だった。  かなり離れていると言うのに、ごつ と鈍い音がここまで響いてくる。 「う、わ  」  聞いているこちらが思わず声を上げてしまうような音に、反射的に体がすくんでしまう。  こんな場所であんなふうに取り乱すなんて、余程のことがあったんだろう……  会社勤めを経験したことがないから良くわからなかったけれど、仕事でのことなのか、それとも会社での人間関係でのことなのか。  どちらにせよ、あそこまで取り乱すんだから、余程のことがあったんだろう。    出て来たビルがビルだし、悌嗣の会社関係の人に間違いはないだろうから迷ったけれど、それでも目の前で怪我だろう人を放っておけなくてそちらへと駆け寄ろうとした。  けれど、オレより早く後を追うように飛び出してきた見慣れた人影が、さっとその人を助け起こして…… 「いったん戻りましょう!怪我の手当てもしないと!」 「っ!放してっ」  額から血を流して、明らかに治療が必要だとわかるのにその人は身を捩って悌嗣の腕の中から逃げようとしている。 「や っ放してくれっ!」 「だめです!一人になんかさせられる訳ないでしょう⁉︎」  キュッと、緩いネックガードが締まったような気がした。 「愛してるって言ってくれたっ!こんなことあるはずない!離れないって言ってくれたのに!なんで離れるんだ!」  Ωらしい線の細い腕が悌嗣の襟を掴んで揺さぶって…… 「そ、れは  すみません……」  呻くような謝罪の言葉に、ザワザワとしたものが背筋を駆け上がっていく。    なぜそこで、悌嗣が謝らなければならないのか……   「とにかく手当てしましょう」 「いやだっ」 「お腹の子がどうなってもいいんですか⁉︎」  固い声にハッとしたのか、額から流れる血ですら気にしなかったのに、その言葉に萎れるように項垂れてしまう。  そんな彼を抱き寄せて、悌嗣はオレが見たこともないような優しげな?同情的な?視線で彼を見つめている。 「歩けないでしょうから抱き上げますね、とりあえず医務室に行きましょう。手当ての間にタクシーを呼んでおきます か  ら   」  途切れかけた言葉で悌嗣がオレを認識したのがわかった。  視線が絡まって、  悌嗣が青くなって、  腕を離そうとしたけれどもう遅い、  オレはそれを見てしまったんだから!    靴底の下でジャリ って砂の擦れる音が聞こえたのに、オレに向けて何かを言っている悌嗣の声は聞こえなかった。  

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