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苦い人生 30

   もう今日は走りたくないって思っていたのに、どうしてだか足が止まらない。  あのままあそこにいて、怪我人を介抱する悌嗣を見ていたくなかった。  先程まで二人で交わしていた会話を、酸素の足りない頭の中で何度も何度もぐるぐると考え直して行くと、喉がひぃ と小さく音を立てる。   「  なんで?」  どうして、そこで悌嗣が謝る必要があった?  どうして、離れることに対して、悌嗣が謝罪をする?  ……どうして?    可能性を考えただけで、ぶるりと体が勝手に震える。  どうして早く帰ると言っておきながら、帰りが遅かった?  どうして悌嗣が彼を追いかけて来なくちゃいけなかった? 「  ────お腹の子 って……なんだ?」  足が上がらなくて、道の些細な段差に蹴躓いたけれど、なんとか彼のように倒れ込まずに済んだ。  なのに、膝が震えて立ってはいられず、倒れるようにして傍らのわずかな段差に腰を降ろした。  一部始終を見ていた通行人が、具合でも悪いのかと一瞬こちらを見たようだったけれど、声をかけてくるには至らない。  いや、今はむしろその方が有り難くて、視線が合わないようにと膝を見詰めた。  暑い日差しにじりじりと肌が灼けて、悌嗣が白い白いとからかう肌が赤くなっていく。  熱くて痛いと思うのに……  どこかぼんやりとしかそれを感じ取ることができない。 「 同僚の、人、だよな 」  いつも、悌嗣が出張を替わる人だと思う。  そんな相手を、悌嗣はどうしてあんな瞳で見ていたのか…… 「いや、  」  そうじゃない。  悌嗣が言っていた腹の子、は…… 「 ────っ」  考えたくない言葉に思わず飛び上がった。  それだけは考えてはいけないってわかっているのに、どうしてもいやな考えが拭い去ることができなくて、日差しに炙られて熱く腫れた目元にぽろりと一筋涙が垂れた。  それがやけに沁みてしまって……  深く考えることができずにふらりとマンションへと向かった。  日差しが遮られる、それだけでずいぶんと涼しいんだと、いつもなら思わないようなくだらないことををぼんやりと考えながら玄関に入る。  悌嗣が先に帰っているんじゃ……って期待もしたけれど、部屋は静まり返っていたし玄関に靴はない。  ただ、消して行ったはずのクーラーがつけられていて、悌嗣が一度はここに戻って来たんだっていうことはわかった。 「さむ  」  ひやりとした空気に、外の熱も体の熱もあっと言う間に奪い取られてしまって、廊下を歩き出す頃には寒さで震えるんじゃないかって程だった。

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