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赫砂の失楽園 42

 きっと、心からの言葉だとは思う。  けれどそれに素直に甘えるには、オレは可愛げがなさすぎる。 「ふふ。その時は存分に甘えることにします」 「うん、そうしてくれていいよ。壱には迷惑もかけちゃってるし」 「あー……失恋してグダグダになってた時の話ですね」 「っ⁉そ、そ、それは  それは、その節はありがとうございました」 「はい。本当に。辞めてやろうかと思うくらいでしたものね」  そう言って横目に見てやれば店長はいたたまれないと言った様子でグラスを手の中でこねくりまわしている。 「辞めるのは困るからやめてぇ」 「あはは、辞めませんって」  少なくとも軽口で言える程度には辞める気はなかった。  時給とかいろいろもらえるとか、そんなのは抜きにして……    ────かろん  木製ベルの柔らかな音にはっと顔を上げる。 「いらっしゃいま  せ   」  言葉尻が消えていき、言葉が口の中でもごもごと転がった。  いつもの調子とのあまりにもの違いに店長が様子を窺ってきたのが分かったけれど、それにかまう余裕はない。  豪奢な金色のたてがみにも見える髪と、思わず見入ってしまうほどの透明感を持つ赤い瞳と…… 「ハジメ」 「    」 「会いに来たよ」    肉厚な唇がオレの名前を呼んだことに、体中がざわりと反応する。  鳥肌や嫌悪感ではなく……あのホテルで体に刻まれてしまった気持ちよさを思い起こさせられたんだと、動かない足で思い知ってしまう。 「ハジ  」 「お客様、お席へ案内します」  ぐっと唇を引き結んで動かないオレの前に店長が出てくれる。  にこやかに笑いながらオレを背中に庇い、カウンターではなくテーブルへと促す態度にほっと胸を撫で下ろした。  店長が間に入ってくれたおかげで、ほっと詰めていた息を吐き出せる。   「   下がれ」  ビリッと鼓膜を破るかのように聞こえた男の言葉は、実際には怒声でも張り上げた声でもなくて冷静な一言だった。  そう言いなれた人間の静かな言葉は、どうしてだか押し返すことを赦さない。  小さく「は 」と音が聞こえて、店長が空気を求めて口を開いたのだと分かったけれど、それ以外は水を打ったように静まり返っている。  ほんの一瞬の出来事なのに、詰めた息が苦しくなって……   「っ  店長っ!」  叫ぶように腹から声を出し、店長の肩を掴んだ。  まるでお化けにでも肩を叩かれたかのように店長は体を跳ねさせ、青い顔でオレを振り返って首を振る。 「知り合いです、大丈夫です」 「壱……」  さっとケイトの方に視線をやると、カウンターの端ですくんでいたのにこちらへと走り寄って店長へとしがみつく。  それからオレに向けて目くばせをしてくれるから……「すみません」と言ってこちらを睨んでいる男へと駆け寄った。    

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