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赫砂の失楽園 88
「オレはこの国に執着はない。オレは王妃になりたいわけでもない。帰りたいだけだ」
「……はい」
「オレ達を無事に日本に返せ、そうすれば この国は──── 約束されるだろう」
どうしてこんな言葉が口を突いて出たのか、正直自分でもわからない。
けれど妙な確信があってその言葉が思い浮かんだ。
「──── でなければ、混沌が訪れる」
ぽつんと呟いて、青い顔をしてオレを見ているブランに向き直る。
「ハジメ様……お目が……」
「何?」
顔に何かついている?と頬に触れて見るも何か変わったところはわからなかった。
ブランにいぶかしむ表情を向けて、「顔に何かついていますか?」と尋ねたところでアルノリトが部屋から出てくる。
「ハジメの顔には美しい理知を宿した金剛の瞳と、口づけしたくなるつんとした形のよい鼻と、朝露を含んだバラの如き可憐な唇がついている。ああ、未来の風になびくような聡明な眉も額も、熟れた桃のようにそっと触れたくなる頬もだ」
「なっ 」
何を言っているんだ!って怒鳴り上げたくなったがぐっとこらえた。
努めて平静さを装いながら、アルノリトではなくブランに向けてこれからのことを尋ねる。
「ご令弟様方はただいま空港を出ましてこちらに向かっているとの連絡を受けております。王宮に到着次第場を整えますので……」
「会いに行く」
「いけません!」
さっと止めたブランに、「どうして⁉」の言葉は向けなかった。
理由ははっきりとわかっている。
この国には王太子が運命の番だと言って連れてきたβであるオレをよく思わない人間がいると言うことだ。
いや、人間しかいない かな。
「ハジメ!では私の宮に行こう!君が目覚めたあの部屋だ」
「は?」
「あそこからはルチャザが一望できる、遠くからくる弟御の姿も見えるはずだよ」
出迎えが難しいと言われ……それなら、高いところから見守るのも悪くはない案だった。
「アルノリト殿下!そこに安易に人を入れるのは……」
「あそこは私の為の宮だ」
「けれど」
「私の伴侶のための場所なのだから、そこにハジメを連れていく」
「オレはっあんたの伴侶にはならない!」
「だから、口説くんだよ」
振り返ったアルノリトは情熱的な男らしい笑みを浮かべ、オレへの愛を滲ませた目でオレを見つめた。
体をひさぐ必要のない生活とは、どんなものだろうか?
困った時に相談に乗ってくれる相手がいる生活は、どんなものだろうか?
怖いものから庇護されると言う生活は、…………?
満ち足りってはちきれそうだと食事をすることも、我慢をせずに買い物をすることも、娯楽のために財布を緩めることも、何もできない人生だった。
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