6 / 26
4.血の薔薇
「いらっしゃい、いつものでいいですか?」
黒と赤を基調とした上品なバー「ブラッドローズ」。さわやかな店長とイケメンなボーイがいると巷で話題の店だ。髪を後ろで結んだ姿の王 がカウンターから女性客に声をかけている。22時も過ぎて店内は賑わっていた。店長が目当て来る女性も少なくない。
「店長!新作のワイン後二本ですけど…」
「ああ…。一本はキープだから開けていいのは残り一本だね」
あわただしい店内でホールの二人は駆け回っていた。店長である王 が走り回れないのは店員も知っている。王 の言葉を聞いたボーイは客に伝えるためにまた走り去った。
「今日は忙しそうですね」
「そうですね、比較的忙しいかもしれません。でも来てくれるのは嬉しいですから」
薔薇の形をしたコースターの上にカクテルを置いて目の前の女性客に差し出す。すぐに他のオーダーのカクテルを作り始めた。作りながらも女性客の世間話を聞いている。ボトルを持つ腕も話しながら笑う姿も目の前の女性を虜にしながら。
カクテルを一通り作り終えたと思った時ちりんとドアのベルが鳴った。
「いらっしゃ…!ああ、ガルですか」
「わ、混んでるな~空いてないなら帰るぜ?」
いつもよりラフな格好をしたガルが入店してきた。
「カウンターなら空いてますよ」
「ファンの席じゃねーのそれ」
文句を言いながらもカウンター席に腰かけて荷物を置いた。注文を言わなくても王 がボトルを用意しているのを見て注文をするかどうか悩んだが顔をあげた隙を見計らって声かけた。
「カルパッチョもくれよな」
「ああ、はい。わかりました」
横に座る女性から嫌な視線を感じる。これだからカウンター席は苦手なんだと内心思ったが空いていないなら文句を言えない。足早にカウンターとキッチンを行き来する王 を見て少しヒヤヒヤしていた。昨日のバーの店じまいがずれて5時くらいまで店にいたらしい。その上今日は朝から依頼が舞い込んで電話対応から取引まで全部やっていたのだから王 はほとんど寝ていないはずだ。照明が薄暗いせいで彼の顔色をしっかり見れないがきっと悪いに違いない。
「はい、鴨肉のカルパッチョです」
「おう、これ好きなんだよな~」
ソースがお洒落に円を描いている。盛り付けも丁寧で繊細だ。これを一人で作るのだから本当にすごい。そしてこれはガルの大好物。酒を飲むときはいつもこれを頼んでいるし追加するときだってある。よだれをこらえているうちに赤ワインのグラスが横に置かれた。
「ブルゴーニュ・ピノ・ノワール・ヴィエイユ・ヴィーニュです。ライトボディですし飲みやすくておいしいですよ」
「ぶる…?なんかよくわかんないけどおいしいならいいぜ」
長いワインの銘柄はガルには難しい。軽く説明を聞いた後ガルが手で「もういいよ」と制止し黙々とカルパッチョを食べ始めた。忙しい時はいつもガルがする合図だ。今日はいつもより早く止められたがおそらく女性客を気遣ってのことだろう。名残惜しくも仕事に戻ると女性客に声をかけられた。
「店長さんも一杯飲みませんか?」
「私はいいですよ。皆さんの分がなくなりますから」
女性客が店長を引き留めたい時によく言うセリフだ。飲んでいる間は近くにいてくれると知っている常連客は時々こうして引き留める。あまり飲むと深夜営業に響くからどうしてもの時にしか飲まないようにしているのだが常連は引き下がらなかった。
「私が出しますから。カクテルなら度数も低いですから、いいでしょう?」
「そう言われましても…はぁ…今日だけですよ」
財布から札を取り出す姿を見て仕方なく自分用の酒を用意することにした。女性客は嬉しそうにしている。グラスを取り出してカクテルを注ぐ。そのまま女性客のグラスの方に寄せて軽くぶつけて音を鳴らした。
「乾杯、ありがたくいただきますね」
一口、二口と少しずつ飲みながら雑談をする。その間もオーダーを受けながらカウンターを行き来していたがふと違和感に気づいて足を止めた。
――おかしい。妙にピントが合わないのだ。いつもならハッキリと見えているカウンターでさえぼやけて見える。その違和感に気づいて自分の腕を見るがそれすらもぼやけている気がした。これはまずいと思って顔をあげホールに居るはずのアルバイトリーダーを探した。そして声を…かけるつもりだった。
視界がぐらりと揺れて足から力が抜ける。せめてもの抵抗で後ろや前に倒れることはなかったがそのまま崩れ落ちた。
「うぉん!!!」
激しい眩暈と吐き気が襲ってきてうずくまるように床で丸くなる。視界がチカチカして地面は激しく揺れているような気がする。ガルの声で他の店員も気が付いたのか走ってくる音が聞こえたがそれが遠ざかっていく気がしてもう駄目だと思った。震えが止まらない。そして今自分が意識を保っているのか分からなくなった。音が…遠くで………。
ぼんやりと見えたのは十年前の東京。
「快离开这里 ! 你这只流浪狗 !」
私は怒鳴りながらガルを追い出している。言葉も発せない、食事の作法も知らない。着替えも、シャワーすら一人で浴びれない私より小さい子供。ただでさえ自分の生活も成り立たないというのにこんな野良犬を飼う余裕なんてない。
「………。…。」
何かを訴えるガルを見下して私は何度も、何度も彼を蹴飛ばした。
それをしたのは間違いなく私だ。私なんだ………。
「…。………ん。………うぉん」
必死に名前を呼ぶ彼を私は――
「うぉん!うぉん!!しっかりしろ!」
世界がぐわんと揺れて近くでガルの声がする。イルミネーションのように光が見えて遠くに聞こえていた音が戻ってきた。ざわざわとしていて誰かが駆け回る音も聞こえる。
「うぉん!聞こえてるか!?」
ぼやけた視界の中に青い髪が見える。ガル…だろうか。
「見えてんのか…?なぁ」
見えています、と伝えたい。けれど声は出なかった。強く体を掴まれているのも大きな声で呼びかけてくれているのも分かっているのに。
「こっち…みてるか?俺のこと分かってんのか?とりあえず裏に運ぶからホールさん後は頼んだぜ!!」
抱き上げられたのか視界は大きく揺れた。すべてがぼやけていて今どこにいるのか分からなくなる。一つだけわかるのはガルの声がするということ。
「ほら、布団のが楽だろ…?大丈夫か?」
「………ガル」
近くにいる。ガルが、ほんの少し動いただけで触れそうな場所に。その表情はとても心配そうで、慌てたせいかほんのり赤くて。
「よかった!意識が…!」
ガル。…ガル?
「店、絶対パニくってるからちょっとここでまっ…」
腕を彼に向って伸ばしてそのまま…。
「んぅ!?」
熱い。とても。
「…???と、とりあえず寝といてくれ!!」
腕の中からガルが抜けて行って足音も遠ざかっていった。
「あとはこっちでどうにかします。手伝って下さりありがとうございます」
「ああ、いや、いいんだよ。裏口から出れるの店員の他に俺くらいしかいねーじゃん」
店長が倒れたことで店内は軽いパニック状態になっていたが冷静な店員が居たおかげでどうにか落ち着いてきた。女性客は特にショックを受けていて泣いていたがどうにかなだめて帰ってもらった。店員のボーイ君はペコペコとなんどもお辞儀してホールに戻っていく。…とりあえずうぉんのところに戻ろう。
バーの裏口を出て階段を上がる。その途中にさっきのことを思い出した。小さな声で俺を呼んで、うぉんは俺に。
「キス…だよな?あれ」
意図的か、それとも助けてほしくて腕を伸ばしたのか分からないがガッツリキスをしてしまったことだけはわかる。でも、もし誰かと間違えているというなら俺の名前を呼んだりしないはずだし、助けを求めるだけなら抱き着いたりしないのではないか?だとしたら彼は俺だということを分かっていてキスをした…のか?まさか。いや、でも…。
悩んでいるうちに二階の部屋についた。安っぽいベッドの上で寝息を立てて王 が寝ている。とりあえず呼吸が止まったりはしていないらしくて安心した。そっとおでこに手を当てるとちょっと熱い気がしたのでもしもの時に買ってあった冷えピタを取りに行く。王 が仕事中頭痛がするからと言って買っていたものだがあってよかった。透明のシートを剥がしてそっと王 のおでこに貼ってやる。冷たかったのかピクっと動いたが起きることは無かった。とりあえず病院は明日連れていくとして、今日は寝ててもらうのが1番だ。何よりもう日にちも変わっている。
とりあえず俺も寝よう。外に行くために着ていた服を脱いでTシャツに着替えた。下はパンツだけでいいや。ベッドはふたつ置くと場所がないからと大きめのダブルベッドだ。ウォンが寝ている反対方向で寝ていれば特に問題ないはずだし、何より何かあったら気づいてやると思う。電気を消して布団に潜り込んだ。そのまま少しスマホをいじっていたが、直ぐに飽きてしまったので目を閉じた。明日、絶対怒ってやる。休めと言ったのに休まなかった王 が悪いんだと。心にそう決めて寝る体勢になる。そのまま、羊を数えてれば………。
「ふぁぁ……………」
欠伸をしてそのまま眠れる。俺はいつもそうやって………。
「ぅお!?」
急になにかに掴まれた気がして目を開けると王 が抱きついていた。寝相かとも思ったがよく見るとうっすらと目を開けている。
「お、起きてんなら先に言ってくれよな」
驚かせるなら他に何かあっただろうと彼に言うがどこか様子がおかしい。返事がない。
「おい、おーいうぉーん起きてんのか〜?」
何を言っても返事が返ってくることは無かった。目は空いているが意識ははっきりしていないのだろう。離してくれると寝やすくて助かるのだが一向に離す気配がなく、無理やり引きはがそうとした時だった。
「ガル………」
小さな声だがハッキリと王 の声が聞こえた。意識が戻ったのか!
「良かった!意識が戻ったんなら離してくれねーか?寝にくいぜ」
「……………………」
「うぉん…?」
離すどころかもっと力強く抱きしめられて困惑する。もしかしたら倒れたことが怖かったのだろうか?それで恐怖を紛らわす為に抱きついているとか。それか体調不良にかこつけて甘えようって算段かもしれない。お茶目だなぁと思いながらそっと押し返すと王 は強く抵抗した。
「ガル……、私だけの……ガル…………」
「何言ってんだ?なぁ、おい?」
強く抱きしめられているとはいえガルの力ならきっと押し返せるが、ガルは彼の目を見てそうするのをやめた。
――泣いている。今まで見た事がないくらいボロボロと大きな涙を零しながら。
「どこにも……どこにも行かないで……………私を…ひとりにしないで………」
1人になんてするもんか。ここまで二人でやってきたじゃないか。最初はぶつかり合っていたけれど今はもう二人三脚で進んできているはずだ。今更王 を置いてどこかに行くなんて考えたことも無い。
「居るよ、俺はここに」
「ねぇ…………行かないで……。私……嫌です……」
話が噛み合わないところを見るとまだ王 は夢の中だ。現実に戻ってきてはいないらしい。夢の中でどこかに行こうとしている俺を引き止めているつもりなんだ。
「大丈夫。居るから」
「どうしても………行くって言うなら…………最後に、私の話を聞いてくださいよ………」
大粒の涙を流しながら息も絶え絶えに話し始める。
「好き…なんです……貴方が………。だから……行って欲しくなくて………私…私……」
「…………」
その言葉を聞いた時ガルは確信した。やっぱりな、と。
「ほんとに好きか?」
「………?すき、です。本当です」
そうか。意識がはっきりしていないならこれはきっと深層心理だ。目線すらどこか宙を見ていてぼんやりとしている。そんな王 が見ている俺はどんな奴だ?
「まぁ、いいや。また今度ちゃんと聞くから」
「………?」
泣くほどに離れてほしくないのなら生き急ぐな。自分から逃げているくせに、自分が虐げていたくせに、離れるななんて無責任だ。だが、王 らしすぎて笑ってしまう。王 はいつも何かに依存して身を壊す。劇薬に依存して身を壊して衰弱した、こいつらしい心情としか言えない。いつもそうだ。隠して、溜め込んで、自分が壊れるまで鞭を打って。お願いだから、そうなる前に相談してくれと起きたら、言おう。
「おやすみ、よく寝な」
優しく撫でると腕の中で静かに眠っていった。たまにはこういうのも悪くない。珍しい王 の弱点を見てしまったのだから。今日くらい、このまま寝てやろう。あったかいし丁度いいかもしれない。
目を閉じて今度こそ眠る。今日は、ワニでも数えようかな?
ともだちにシェアしよう!