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第15話

○●----------------------------------------------------●○ 1/23(日) 本日、『春雪に咲く花』、『君がいる光』のPV増加数が同数であったため こちらを更新させていただきます。 動画を見てくださった方、ありがとうございます! 〈現在レース更新中〉 ↓↓以下の作品の1話動画のPV増加数に応じて、 その日更新する作品を決めさせていただいていますm ◆『君がいる光』(幽霊×全盲の青年 ) https://youtu.be/VPFL_vKpAR0 ◆『春雪に咲く花』(探偵×不幸体質青年) https://youtu.be/N2HQCswnUe4 ○●----------------------------------------------------●○ ——帰りたい。帰りたい。久周の待つ『家』に。 その思いだけが、春海の身体を前へ前へと動かした。 何十分、いや何時間、歩いただろうか。 春海は、まだ闇の中を彷徨っていた。 奎と歩いたのはたかが数十分。しかし点字ブロックもないような細いあぜ道を通ってしまったためか、自分が今どこにいるのかまったくわからなかった。 唯一、奎が追っては来ないことだけが救いだった。 あんな言い争いをしたあとで、結局、彼の助けを求めなくてはいけなくなったら「ほら、見たことか」と思われるに決まっている。そんなことになれば、自分のちっぽけな自尊心までも粉々に砕け散ってしまう。 それに——。 噛みしめすぎて血が滲んだ唇に指を這わせる。 (あれは、一体、何だったのだろう……?) 確かなことはわからない。いや、先ほどのことに限らず、結局、目の見えない自分にわかる確かなことなんて何もない。そういった意味で、奎はどうしようもなく正しかった。 (いや、ダメだ。弱気になっては) 萎えそうに足を叱咤して、春海は歩き続けた。 集落から離れているのか、それとも早寝の年寄りばかりのためか、周りからは何の人の気配も音もしなかった。街灯に集まる虫の羽音だけが、唯一、ここが人の住む土地ということだけを伝えている。 ぎゅっと、自分の身体を抱き締める。山と湖から流れてくる風は、夜ともなると涼しさよりも冷たさが増す。ホーホーと山の獣たちが鳴く声が時折大きく響き、その度にびくりと身体が飛び上がる。 「……ッ」 辺りのものを手探りしながら歩いていると、錆びて剥き出しになった釘で腕をこすってしまった。どくどくと血が溢れ出す。これで何度目だろう。途中、何度も転んだり物にぶつかったおかげで、足も手も傷と痣だらけだった。 それでも今——いや、いつだって、頼りになるものは自分の感覚しかない。春海は腕から流れる血をシャツで拭い、再び手探りで歩き始めた。 さらに数十分も歩いた頃。ふっと頬になじみある冷たさを感じた。絹のように柔らかい感触。 ——久周の冷気だ! 春海はバッと辺りを見回す。冷気はかすかだが、まるで「こっち」だと導くように、ある方向から漂ってきていた。 春海は冷気を頼りに、そちらの方向に向かってひたすら進む。すると、触ったことのある壁の感触を指の腹に感じた。お隣さん——イネさんの家の壁だ。煉瓦造りの小洒落た壁だったからよく覚えている。 (あと少し。あと少しだ!) 全身の血が期待で躍っているのがわかった。もう壁など必要ない。今や、久周の冷気ははっきりとわかるくらい濃くなっており、何も掴まなくても迷うことはなかった。 まるで家の軒先に灯った温かいランプのように、自分を正しい方向へと導いてくれる光のようだ。 最後には小走りになっていた。こんな安心した気持ちで走ったのは、本当に久しぶりだった。いや、初めてかもしれない。 「久周っ……!」 勢い良く玄関に入ると、ワンワンとセナが縁側で狂ったように鳴いた。一秒と経たず、久周が飛び込んでくる。 「春海! 良かった! 帰って来ないからどうしようかと思った! ——おい、どうした!? 傷だらけじゃないかっ!?」 土間にへたり込んでしまった春海の前に、久周が慌てて駆け寄る。慣れ親しんだ冷気と匂いに、春海の目じりからほろりと涙がでる。 「……う、うう……」 安堵と惨めさが交じり合って、涙が止まらない。傷だらけの手で拭いても拭いても、あとから溢れ出てくる。これ以上、惨めになりたくなくて、せめて久周に見られまいと顔を伏せる。 「……どうして、どうして僕は目が見えないのだろう……」 子どもの頃から何度も神様に問いかけ、やがて一度も問わなくなった問いが、喉から勝手に出てくる。 「目が見えていたら、もっと早くここに戻ってこられたのに。目が見えたら、奎の手をちゃんと断ることもできた。でも僕にはできない。僕は誰かの好意を、無下にしたりできるような立場ではない。望んでいようといまいと、手を差し伸べられたら、取らなくてはならないし、たとえどこに連れていかれようとしても、その手を離すことはできない。僕は杖がなければ、セナがいなければ、まともに一人で歩くことさえ——生きていくことさえできないんだっ……!」 数十年分、積もりに積もった思いが、どっと身体にのしかかってきた。全身の傷はさらに痛み出し、どくどくと脈打つ。 ごしごしと滝のように出てくる涙を乱暴に拭っていると、ふっと深い吐息が耳元にかかる。 「でもお前はこうして歩いてきた。ボロボロになっても、ここまで一人で歩いてきた。そうだろう?」 久周の声は慰めるというより、淡々と事実を語るようだった。 「こうゆう時……」 ぼそりと、久周が呟く。 「こうゆう時、抱き締めてやれればいいのに……俺は今ほど、自分が幽霊であることを後悔したことはない……」 「なんで……?」 春海は鼻をぐずりと啜り、わずかに顔を上げた。 「どうして? 僕、感じているよ。久周が抱き締めてくれていること。それこそ僕が帰って来た時からずっと」 再び相手の肩に顔を埋めると、身体に回る久周の腕の力がさらに強くなった。冷気だけの抱擁は実際の感触を伴わなかったが、それでも強く抱きしめられていることを春海は感じていた。 「……俺には、お前の気持ちは完全にはわからない。でも、こんなこと言っていいのかわからないけど、俺はお前の目が見えなくて良かったと思う」 久周は一度息を飲み込み、一言一言確かめるように言葉を紡ぐ。 「もしお前の目が見えていたら、きっと俺のことを見て逃げ出していただろうし、こんな幽霊屋敷に住み着いたりもしなかった。それにこんな風に——」 ふっと全身を包んでいた久周の冷気が離れ、代わりに親指が、春海の頬を伝う涙を拭う。火照って痛んだ頬に、その冷気はとても心地良かった。 「お前が普通の人間だったら、こんな風に俺の存在を感じ取ったりできなかっただろうし……俺も、ささいなことでも人生を楽しもうと輝いているお前を……好きになったりしなかった……」 再び、久周の抱擁の中に身体を引き寄せられる。 腰に回る力強い腕。背中をさする優しい手。森の香りのする規則的な息遣い。 不思議と、久周の存在の全てを感じることができた。 まるで生きている人間のように。いや、それ以上に。 久周の冷たい皮膚の下では、とくとくと温かいものが鼓動していた。魂の鼓動。それは初めて触れた時よりもずっと鮮やかで、温かかった。 (あぁ、そうだったのか……) たぶん自分は、最初から——久周の魂に触れた時から、彼に惹かれていたのだ。だからこそ、誰よりも彼の気配を、魂の感触をあんなにも敏感に感じ取れたのだ。 両腕を相手の背中に回す。さらさらとして冷たい、だが温かい久周の感触を掌で味わう。 「僕も……好きだ、久周のことが……誰よりも……」 顔を上げると、相手の唇に自分のものを重ねた。花びらに触れるような儚い感触だったが、確かに久周の唇の存在を感じた。 「春海……」 久周からも唇を返してくる。 何度かついばむようなキスのあと、二人の唇がぴたりと重なる。触れた唇と皮膚から、自分の、相手の想いが大きな波となって指先から足先までを浚っていく。 ——魂が重なっている。 そう感じるほどに、二人は一つの存在になったような気がした。 久周の言った通りだ。 もし自分の目が見えていたら、絶対にこんなことは感じなかっただろう。 そもそも目が見えていたら、こんな都内の僻地で一人暮らししようとも、騙されて幽霊屋敷なんかに引っ越すこともなかった。何より、幽霊の久周とこんな奇妙な同居生活をすることもなかった。 ——そして、彼に恋することも。 全部、自分の目が見えていたら、起こらなかったことだ。 初めてだった。自分の目が見えなくて良かったと思ったのは。 どれくらい経ったのだろう。一生のようにも一秒のようにも感じる時間が過ぎたあと、お互いゆっくりと顔を離した。 久周が気恥ずかしそうに、春海の肩にポンと手を置く。 「早く傷の手当をしないと。悪い菌でも入っていたらまずいからな。傷を洗って、着替えて来い」 「君は?」 「俺はちょっと、ここで頭を冷やしているよ」 くすりと笑いがこみ上げる。もう全身冷えているのに、変なことを言う幽霊だ。 小さく笑いながら、春海は洗面所に向かった。慣れ親しんだ廊下の匂いを嗅ぎ、さらにほっと息をつく。 帰ってきたのだ。自分は、家に。久周のもとに。 知らず微笑みが浮かぶ。先ほどまで、あんなに打ちひしがれていたというのに、自分も現金なものだと思う。 (そういえば奎はどうしたんだろう? あんな風に飛び出して、気を悪くしただろうか……?) ふるふると首を振る。いつまでも、こんな考え方をしてはいけない。人の機嫌を窺っていては、今までと何も変わらない。 「……ッ」 腕に爪をたててしまっていたのか、完全に乾いていなかった腕の傷からポタポタと血が滴り落ちてきた。 (やばい。あとで掃除しなくちゃ——) ぞわり。その時、背中の毛が一気にそばだった。 気がついたら、廊下は冷気に包まれていた。久周のものではない。彼のものよりずっと冷たく、神経をざわつかせるような禍々しさだ。 (この冷気は……) 突然、脇の障子が一斉にガタガタと揺れた。まるで、座敷の中から何人もの人が、障子を手で叩いているような……。 『苦しい……助けてくれ……』 地底の底から立ち上ってくるような唸り声に、春海は一歩後ろに下がった。洗面所の手前にある柱に背を打ってしまう。 「春海っ! 大丈夫か!?」 ワンワンとセナの激しい吼え声とともに、久周の声が座敷の向こうから聞こえてきた。 「今すぐ逃げるんだっ! お前の血に反応して、住人たちが——」 続きは聞こえなかった。辺りは突然、水に包まれてしまったかのように、音が遠くぼやける。 ヒタヒタヒタ……。 手前の奥から、足音が聞こえてきた。それはビジョリビジョリと水のこもった音をさせながらゆっくり、しかし確実に近づいてくる。 ——誰か、くる。 足の指先に冷たい水が触れ、後ろの洗面台まで下がる。雨でもないのに、ボタボタと天井から水が滴ってきていた。辺りにはむっと刺激臭を含んだ匂いが立ちこめ、その濃さから全身が重たくなる。 (この匂い……この匂いは……) 神社で、蔵で、そしてあの首を締められた夜に感じたものと同じものだった。 「……君は……もしかして深影(みかげ)? 昔、この屋敷に住んでいた人?」 ピタリと足音が、春海の数歩前で止まった。 やっぱり、そうだ。春海は確信した。 もし自分の推理が当たっていたとしたら、深影は生け贄の犠牲者だ。久周は彼を助けるために、彼を集落から逃がそうとした。 自分が見た夢は、その時の光景に違いない。そして、あの血まみれの座敷の光景が意味するのは……きっと二人の試みが失敗したということだろう。久周の魂がこうして屋敷に縛り付けられ、深影を探して彷徨っているのも、そのためだ。 さらに春海の考えが正しければ、きっと深影も……。 『どこだ……? 彼は、どこだ……?』 ガサガサにひび割れた声が、底響く。足元に広がる水たまりがさらに深くなり、春海はギリギリまで後ずさった。 「君は、久周を探しているんだろう……?」 ようやくでた春海の声も、相手に負けないくらい枯れていた。 もう気がつかないふりをするのも限界だった。 久周には大切な人がいる。彼が生きていた時代に一緒に生きていた人。彼のためなら命を捨ててもいいほど大切だった人。 (それが今、僕の目の前にいる人なんだ……) 春海は、目の前から漂ってくる冷気の方に意識を向けた。 八十年。そんなにも長い時間を彷徨っているということは、きっと彼も久周のことを……。 ぎりぎりと、胸が直接、拳で締め上げられているように痛んだ。 久周は自分のことを好きだと言ってくれた。だがそれは、この人のことを忘れているからだ。 きっと思い出したら、久周は——。 (嫌だ……そんなのは) 久周は自分に——暗闇の中でしか生きてこられなかった自分に、初めて光を見せてくれた。彼が一緒にいてくれたら自分は強く、自らを卑下することなく生きていける。 (……もし、それが久周の自由を奪うことになってしまっても?) がくりと身体から力が抜け、その場にへたり込んだ。床に広がった水が、つる性の植物のようにジーンズから上がってくる。しばらくもしないうちに、どんどんと身体が芯まで冷え重くなっていく。 『気をしっかり持て。でないと取込まれるぞ』 久周の言葉が甦る。 だが、今は無理だ。今だけは。 久周が自分のもとから離れていってしまう。その事実は、想いが通じ合った直後には、あまりにも辛すぎた。 「お願い……」 重たい顔を、のろのろと上げる。 「久周を連れて行かないで……お願いだから……」 春海は、冷気に向かって震える手を伸ばした。 「……ッ!?」 指先が水のような冷気に触れた直後、突然、水の中に放り込まれたような衝撃を覚えた。 喉の奥に水が入り込み、息ができない。身体は水を吸って重たく、縛り上げられているかのように指先一本も動かせなかった。 「久、周……」 そのまま、春海の意識は深みへと沈んでいった。

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