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第16話
ふゅおおと、風の唸り声がする。
そっと目を開けると、辺りは薄闇の中だった。
数距離先に湖があり、水面に反射する光が碧く周囲を照らし出している。ドーム状になっている壁はゴツゴツと隆起した岩で、天井のいたるところからギロチンのような鋭い岩のつららがぶら下がっている。
(洞窟……? 何で僕は、こんなところに……?)
喉にわだかまる息苦しさが、ふいに甦ってくる。
そうだ。自分は死んだんだ。でなければ、こんなところにいる理由がはないし、目が見えているのもいい証拠だ。
幸いにもあの世には、健常者も障害者もないらしい。
ただちょっと、というかかなり、想像していたあの世とは違ったが。
「良かった……! 探したんだぞっ……!」
突然、後ろからがばっと抱き締められた。
振り向くと、そこには久周がいた。湖の光に照らされて、端正な顔と白い軍服は蒼然としていた。頬はこけ、目の下には影がさしている。それでも、何度か夢の中で見てきた久周そのものだった。
「久周、一体、どこにいたんだ。それに、ここは——」
「俺は、君の側にいたよ。ずっと」
久周は、春海の首筋に顔を埋めた。その身体はしっかりとした重量があり、冷たくもなかった。まるで生きている人間のように。
(いや、逆か……?)
自分は死んだ。久周と同じ存在になったのだ。だから前よりも、彼の存在を身近に感じてもおかしくはない。
これで良かったんだ、と思った。こうして久周に触れられるなら、ずっと一緒にいられるなら、肉体がないことなどささいな問題だ。
ふと、足元にたまっていた水たまりに自分の顔が反射した。
青白い肌、神経質そうな細面、無駄に大きい目。
自分の顔など初めてみた。だが心なしか、夢の中でちらりと見た深影の顔に似てなくもなかった。というより髪の長さ以外は、そっくりといってもいい。
(一体、どうゆうことだ……?)
「…………げ」
久周の声が聞こえて、顔を上げる。久周は目を細め、まるで宝物を見るような目で春海を見下ろしていた。
(今、この人は何と言った? 僕のことを……深影と呼ばなかったか……?)
吐息がかかりそうな至近距離から、久周をまじまじと見つめる。相手の瞳の中には、戸惑う自分自身の姿がうつっていた。
「お前、誰だ……?」
春海の戸惑いに気がついたのか、ふいに久周が眉を上げ、一歩下がる。
「言え。彼はどこだ! お前は一体、何なんだ……! なぜ深影と同じ顔をしている!?」
がしりと、久周の両手が春海の首にかかった。ギリギリと気道を締め上げられ、春海の視界がかすむ。久周の顔は怒りに満ちていて、先ほどまでの穏やかな面影はまったくなかった。
「久っ——……!」
言い終わる前に、春海の視界は再び闇に包まれた。
※
目を開けると夜だった。いや、違う。そう思ったのは一瞬だけで、すぐにいつもの闇の世界に戻っただけだと納得した。
身体を起すと、掌の下に固い地面を感じた。庭に咲く月下美人の強い香りが、梅雨の湿っぽい空気に充満している。嵐の前ぶれのようにひゅうひゅうと風は低く唸り、虫の声すら聞こえない。
どうやら自分はまだ生きているらしい。それだけはわかった。
ホッと息をつく。
では、さっきのは夢か? もしそうだとしたら、なぜあんな夢を?
答えは一目瞭然だ。
生前、久周は、深影を愛していた。そうゆいうことに疎い自分でもそれだけはわかる。
自分は怖いのだ。
久周が記憶を思い出して、自分のことを忘れてしまうことが。その恐れが、あんな夢を見せたのだ。
「……?」
ふと、指先が石畳に触れた。この感触、覚えがある。
蔵だ。どうやら自分は今、蔵の前にいるらしい。ほっとした。少なくとも、自分の家にいることがわかっただけでも安心だ。
(でも、何でこんなところに……?)
確か、自分は家の廊下で倒れたはずだ……。
あの時の冷たい悪寒が甦ってきて、思わず振り返る。誰の気配もしなかった。ただ風だけが、木々をギシギシ揺らして唸っているだけだ。
(久周は、どこに行ったのだろう……?)
キイ。その時、前の蔵の扉が開いた。風だろうか。
ふと扉の隙間から、水の匂いが漂ってきた。つんとした消毒液のような刺激臭。
前に何度も嗅いだことのある匂いだ。しかも今までの中で一番強い。
春海は匂いに誘われるように、蔵の中へ入る。一歩一歩進む毎に、水の気配はさらに濃くなっていった。
クンクンと犬のように匂いを辿っていくと、足元でギシッと床が撓る音がした。
『危ない!』
鋭い声が記憶の中で甦り、春海は慌てて後ろへ下がった。
そうだ。ここは以前、久周に注意されたところだ。
(でも、何でこんなところから匂いが……?)
床に膝をついて、慎重に床の上を手で探る。すると木材の間から、冷たい風が吹き上がってくるのを指先に感じられた。
もしかしたら、この下に何かあるのかもしれない。
昼間、久周と話し合った時のことを思い出した。
生け贄を人知れず連れ出す方法。もし、それが地下にあったとしたら?
ごくりと喉がなる。
行ってみるべきか? この中には、久周の記憶を探し出すヒントもあるかもしれない。
だが、身体は意志に反して動かなかった。
もし行ったとしても、目の見えない自分に何ができる? 自分の身を危険にさらすだけだ。そんなことをしてまで行くべきなのか?
もし久周が記憶を取り戻せば、彼は自分のところから去って行ってしまう。もう二度と、手の届かない遠くへ。
ならば、記憶など取り戻さない方がいいのではないか。
久周がいなくなってしまえば、自分はこの広い屋敷に一人、取り残される。彼への想いを抱えたままずっと、出口のない暗闇を彷徨い続ける。
なんて地獄なのだろう。生き地獄だ。生まれてからずっと闇に包まれてきた自分でも、耐えられるかどうかわからない。
——止めよう。
あと少し、少しでいい。たとえ久周との時間が限りあるものだとしても、今別れなくてはいけない理由がどこにある? せめて離れる覚悟ができるまでは、一緒にいたい。
(でも……本当に、それでいいのか……?)
自分は己の都合のために、久周をこの屋敷に縛り付けようとしている。それは、自分がもっとも嫌ってきたことではないのか。
(でも離れたくない……久周のことを愛しているから……)
ふと、深影の顔が頭に過ぎった。
彼もまた、久周のことを愛していた。幽霊になって、こんな屋敷を何十年も彷徨うくらいに。
なぜ彼らは会えないのだろうか。死んだ場所が、時期が違うから? もし久周が記憶を取り戻せば、彼らは再び会えるのだろうか?
ふっと、乾いた笑いがもれる。
勝ち目などないことは、初めからわかっていた。自分と久周は出会って、たかが数週間だ。でも彼らは死すら越えて、お互いを求め合っている。たとえ久周がそれを覚えていなかったとしても、彼は無意識に自分の記憶——深影を探し回っている。
わかっている。本当に、久周のことを考えるのならば、彼を深影に会わせてあげるべきなのだ。
たとえどんなに心がそれを拒否していたとしても、自分には誰かの自由を踏みにじることはできない。絶対に。
そんなことをすれば、自分は自分でなくなってしまう。
何より、久周を信じている。
彼が記憶を取り戻し、深影への気持ちを思い出しても、自分のことを忘れることはないだろうと。たとえ自分への気持ちが消えたとしても、うまく引導渡してくれるはずだ——永遠に、別れるための。
そして、自分はそれを受け入れる。彼を愛しているから。
(そうしよう……)
そもそも幽霊に恋をしてしまった時点で、ハッピーエンドなんて存在しない。最後には必ず、別れがくるのだ。
それならば、久周が幸せに——一番愛した人とともに旅立つことが、自分にとっての幸せでもあるはずだ。……たぶん。
おそるおそる床を触って確かめる。前と同じく、二階テラス部からは水滴が滴り落ちてきていて、床材はしなしなに湿っている。力をかけさえすれば、どうにかなりそうだ。
何か使えるものはないかと手探りすると、丁度よくバールが見つかった。運がいい。今日ばかりは神様に感謝だ。
バールの鉤部を床材の間に引っかけ、足を使ってこじ開ける。それを何度か繰り返していくうちに、人が一人通れるくらいの穴が出てきた。どうやら床材はこの穴の上から打ちつけられていただけだったらしい。
鼻を近づけると、穴からは木と土とカビの匂いとともに、冷たい刺激臭が上がってくるのがわかった。試しに、近くにあるものを落としてみる。音の反響具合からいって、思ったよりは深くはないようだ。
春海は床板の縁をしっかりと腹につけ、慎重に足先から下りる。地面はすぐに見つかった。だが念には念を入れて、普通の人だったら五分とかからないところをたっぷり数十分かけて、土の上に降り立つ。
風通しをよくするためか、地面と蔵の床部には、大人が中腰になって通れるくらいの高さがあった。床下を支える木の柱が、神殿のように何本も立っている。少し離れたところで、安住の地を脅かされた小動物たちがさささとどこかへ逃げていく音がする。
見たところ——まぁ、見えてはいないのだが——普通の床下だ。
地面に膝をつけ、手探りで辺りを調べる。すると床穴から数メートルもいかないところで、冷たく固いものが指先に触れた。
鍵——南京錠だ。
手早く辺りの土を払うと、飛行機のピットのような正方形の金属製扉が現れた。相当古いものなのか、いたるところが錆びていて、ボロボロに剥がれている。南京錠の方も、少し力を入れただけですぐに開いた。
先ほどのバールといい、今日の自分はついているらしい。
(いや、待てよ。本当に、そうか……?)
何事にも慎重な春海には、これが神様からの幸運だとは、どうしても信じられなかった。
二年前、孫息子はもしかしたら、二階から落ちたのではなく、自分から床を壊したのではないか。あのバールを使って。
考えられないことでもなかった。
プレーヤーで聞く限り、彼は色々とこの屋敷のことについて調べていた。蔵にあった本もきっと彼のだ。ならば途中で、彼がこの床下のことに気づいたとしても不思議ではない。
そして調べている時に、久周の霊と遭遇して——落ちた、いや、落とされた。
(……いや、止めよう。そのことを考えるのは)
今、目の前のことに集中しなければ、彼の二の舞になるのは自分なのだ。
把手に手をかけ、思い切り引く。するとギギギと錆びた音とともに、ドアが開いた。途端、ぶわりと濃い水の匂いが溢れ出る。蔵や神社で嗅いだものよりも、ずっとずっと濃い。
(ここだ。ここに間違いない。ここに何かがあるはずだ)
周りの砂粒が、パラパラと扉の中に落ちていく。その音で、今度はかなり深い穴だということがわかった。
扉の周りを調べていると、木の梯子に手が当たった。これを使って下りろということか。
(もし、踏み外したらどうなるだろう?)
嫌な考えが頭を過ぎる。下までどれくらいの深さがあるか知らないが、もしそんなことになったら良くて不随。最悪、死だ。
ここは慎重に行かなくては。たとえ何時間かけたっていい。
くすっと笑みがもれた。どうやら自分に、行かないと言う選択肢はないらしい。
考えてみれば、相当馬鹿なことをしている気がした。もう死んでいる幽霊のために、命をかけるなんて。
でもきっと同じ立場だったら、久周もそうしたのだろうと思う。彼はそういう人だ。たとえ相手が誰であったとしても。
「よしっ」
深呼吸を繰り返し、梯子に足をかける。一段。一段。足元と手元を確かめながら、ゆっくり慎重に下りて行く。
不思議と怖くはなかった。というよりも、次に何があるかわからない恐怖は、日常茶飯事で慣れきっていた。むしろ、人と車が行き交う都会の方が怖いくらいだ。
数十分くらい経った頃だろうか。右足が固いゴツゴツした地面に触れた。手を梯子にかけたまま、今度は両足でしっかりと踏みしめる。
片手を突き出し、梯子の横の壁に触れてみる。濡れた岩肌はひんやりとして冷たく、爪をたてるとポロポロと簡単に崩れていく。顔を近づけると、つんとした刺激臭を感じた。
石灰岩だ。何度か、作品に使ったことがあるからわかる。
(——ということは、ここは鍾乳洞ということか)
丹波が以前言っていたことを思い出す。
水原一帯は石灰岩地帯で、昔は林業とともに石灰産業で栄えていたとか。近くの集落にも、関東随一と言われる観光用の鍾乳洞があるらしい。
普通、鍾乳洞というのは大小含めて石灰岩地帯に多く点在している。
きっと、ここもそのうちの一つなのだろう。
(……そして、ここが生け贄になった人たちが通った秘密の通路……?)
春海は両手を梯子から離し、壁沿いにそって数歩歩いた。指先が太い注連縄のようなものに触れ、リンリンと涼やかな音が洞窟内に反響する。
どうやら注連縄には一定間隔で鈴がついているようで、音の響きで自分がどこにいるのか、周りがどのくらいの広さなのかがよくわかる。
昔の人たちもこの暗闇の中、これだけを頼りに歩いたのだろうか? 身を捧げる川に向かって?
胸くそが悪くなる——汚い言葉を使っていいのなら。
決意を新たに、注連縄をつたい一歩一歩進む。
辺りは、闇よりも濃い沈黙に満たされていた。自分以外、動くものの気配は一切ない。
まったくの闇。まったくの孤独。
音もしない、前も後ろも見えない。自分がどこにいるかもわからない。唯一、感じるのは注連縄と岩の感触だけ。
たぶん普通の人間だったら、これだけで神経が参っていただろう。
だが何度も言うようだが、自分は平気だ。こんなことは生まれついた時から慣れている。
——これは自分にしかできないことなんだ。目の見えない自分にしか。
そう思ったら、心の中に誇らしさと勇気のランプが灯った。
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