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第17話
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お忙しい方のための
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どれくらい歩いただろう。ゴツゴツした足元はなだらかな坂になってきて歩きづらかった。だが、注連縄があるおかげで気持ち的には楽だった。
少し行ったところで、注連縄が二手に分かれていた。右手からは緑の香りを含んだ風の気配を感じた。もう片方からは、かすかにだが川の流れる音が聞こえてきた。たぶん前者は、神社の洞窟に抜ける道だろう。
(ということは、こっちか)
恋しい外気に背を向け、左手側の注連縄を取る。洞窟は徐々に広くなっていっているのか、鈴の音が広がって聞こえる。ゴオゴオと流れる川の音も、しだいに大きくなっていく。
(一体、僕は何を探しているのだろう)
この中に入りさえすれば、久周の記憶が見つかるかと思った。だが、その気配は一向にない。そもそも何かあったとしても、目の見えない自分は見過ごしてしまう可能性の方が高い。
(一端、戻ろうか?)
踵を返そうとした時、縄がするりと手からすり抜けた。どうやら長い年月のせいで一部が風化して、ここにきて切れてしまったらしい。ジャラジャラと大きな音をたてて縄が地面に落ちた音が響く。
「ど、どうしよう……」
手探りで落ちてしまった縄を探す。ようやくその先端が見つかった時、
「……!?」
突然、足元がなくなり、衝撃が全身を襲う。喉に水が一気に入り込んできて、息苦しさから意識が一瞬飛んだ。そして水に足を捕らわれて転んでしまったと気がついた時には、既に身体は水中の深くまで沈みこんでいた。
「……ガハッ!」
いくら手を伸ばせど、水面に手が届かない。そもそも水面がどの方向にあるのかもわからない。濡れた服が全身にはりつき、鉛を纏っているかのように重くなる。
怖い。苦しい。怖い。苦しい。
自分は死ぬのか。ここで? 久周にもう一度、会えないまま?
(……そんなのは嫌だ!)
「掴まれっ……!」
むずりと大きな手が春海の手首を掴み、水面へとひっぱり上げた。
「……ハッ」
水面から顔を上げた瞬間、空気が一気に肺の中に入ってきて、むせ込んでしまう。
「落ち着け。ゆっくりと息をしろ」
大きな手が、背中を撫でる。ようやく呼吸が落ち着いた頃、春海はのろのろと顔を上げた。
久周だ。目の前に久周がいた。
短い、日に焼けた髪からは水滴が零れ落ち、精悍な顔に透明な筋をつくっている。腰から下は春海と同じく零点化の水に浸かっているせいか、彼の顔色は着ている軍服と同じくらい白い。目の下や張り詰めた頬には、疲労の影までかかっている。
「って、あれ……? 何で僕、見えて……」
遅れて気がつく。そっと目に手を当てると、片目だけだが確かに見えていた。
半信半疑で辺りを見回す。
洞窟内は、舞踏会でも開けるほど大きく拓けていた。
春海たちが浸かっている地底湖は、底からわずかに差してくる光が反射して、ブルーダイヤモンド色に光っている。その輝きは天井に反射し、プラネタリウムのように世にも妙なる水の模様を洞窟内に映しだしていた。何千年もの時をかけて形成された鍾乳石の中には、つららの形をしたものや、タケノコのような形をしたもの、フローストンと呼ばれる大きな繭のような形をしたものもあった。
岩の植物園。
そんな言葉が頭を過ぎる。
海だけではない。世界は、こんなにも美しい光景を隠し持っていたのか。
「どうしたんだ? ぼおっとして?」
肩に手がかかる。振り返ると、久周が穏やかな表情で笑いかけていた。驚きと困惑と嬉しさから、春海はどんな顔をしていいのかわからなかった。
「あ、当たり前じゃないか! ぼ、僕、片目だけだけど、見えてるんだっ……!」
久周の微笑みがさらに深くなる。
「何言っているんだ? もともと片目は見えていただろう?」
(——え?)
春海は、相手を見つめ返した。薄い笑みをたたえた久周の白い顔は、湖の底からさす紺碧の光に照らされ、不気味とも言えるほど神秘的だった。
「き、君……久周じゃないのかい?」
「久周だよ。当たり前じゃないか」
久周の腕が、春海の身体にぎゅっと回る。
「深影 。会いたかった。ずっと」
春海は、自分の頭がぼおっとしてくるのを感じた。溺れかけたせいか、それともこの耳朶に優しく甘く囁きかける声のせいか。
「久周……君、記憶を思い出したの……?」
頭の隅に残った理性をどうにか搔き集めると、久周がくすりと耳元で笑った。
「何言っているんだ。お前のことを忘れたりはしない。俺はずっとお前だけを探していたんだ」
ぐっと腰に回る腕に力がかかった。布越しでもわかるくらいに、久周の手は冷たかった。纏う空気は氷のように凍てつき、ちりちりと肌を刺す。先ほど、廊下で感じた冷気にそっくりだ。
(じゃぁ、あれは……いや、今までのことも全部、久周が……?)
水に浸かっている腰から下は既に感覚がなく、上半身も久周の身体と触れているところから、徐々に熱が奪われていく。
春海は、ぐったりと久周の肩にもたれかかった。
身体が重い。それ以上に心が重い。
久周は、記憶を思い出してしまった。春海の願いも虚しく、春海のことも忘れて……。さらに悪いことに、なぜか春海を深影だと勘違いまでしているらしい。
(……それでもいいか……)
もしこのまま死んでしまえば、本物の深影になることができるかもしれない。そうでなくとも、今この瞬間だけは、彼の一番大切な人として、果てることができる。
「久周……」
感覚がなくなった腕をのろのろと上げ、久周の背中に回そうとした。
「……春海っ!」
リンリンリンと鈴の音が、洞窟の沈黙と闇を切り裂いた。深い森の香りと生ぬるい冷気が、一陣の風のようにやってきて辺りの空気を満たす。
春海は、見える方の目だけでちらりと横を見た。氷河のように重い身体には、それが限界だった。
春海が来た方とは反対側の湖畔に、久周がいた。その服は以前、夢の中で見た時のような生成りの白い上下だった。
「彼を離せっ……!」
汀にいる久周の顔は、憤怒に歪んでいた。
(久周……? まさか、そんなはずはない……だって、彼はここに——)
春海は自分を抱き締めている人物の顔を見ようと、顔を上げた。だがすぐにグッと相手の胸元に引き戻され、腰に絡まる腕にさらに力が入る。まるで巨大な蛇に絡みつかれたような圧迫感に、春海は息を飲んだ。
「やめろっ! 彼を離すんだっ……!」
対岸から、切羽詰まった声が聞こえてきた。
「駄目だ。彼は渡さない。深影は俺のものだ」
軍服の久周は春海の身体を片腕で抱くと、後ろへ後ろへと下がっていく。奥の水色は紺碧が一層濃くなっていて、底が見えない。いや、もしかしたらないのかもしれない。ぽっかりと空いた青い穴は、まるで奈落の底に誘うように渦を巻いていた。
相手の肩越しにそれを見た春海は、必死にその場に押し留まろうとする。が、冷え切った身体は思ったように動かない。
「違うっ……! 彼は深影じゃない! 春海だ! あんたは勘違いをしているんだっ……!」
白いシャツを着た久周は拳を身体の横で握り締め、今すぐにでも飛び出したいというように縁から身体を乗りだしていた。だが湖から上がる青白く凍えた冷気が、壁のようにそれを押しとどめている。
軍服を着た久周は、もう一人の久周を冷え切った目で見つめていた。
その端正な横顔は、湖から上がってくる光に照らされずとも真っ青で、瞳は黄泉の穴のように暗かった。目の下は落ちくぼみ影になっていて、薄い唇は酷薄そうに固く結ばれている。
夢の中で何度も見た顔——なのに、どうしてか別人のもののように春海は感じてしまった。
対する、もう一人の久周の顔は、少し見慣れないものだった。
意志の強そうな太い眉、大きく通った鼻梁。広く締まった顎と輪郭。まだ少年らしさが残る二重の目元。
一つ一つのパーツは軍服の久周に似ていたが、荒々しさが目立つ。前者を、やすりを丹念にかけた像にたとえるならば、こちらはまだ鑿で削ったばかりの未完成品という感じだ。
だが、なぜか白シャツの彼に打ち震えるほどの親近感を感じた。まるで生まれる前から知っているような……。
——彼だ。今まで自分が接してきた久周は彼の方だ。
春海の常人より優れた直感が、そう述べていた。
『俺を見て』。
あの時の夢——木の下で抱き合った時、自分にそう囁いたのは。「ここから出ていけ」と言いながらも、結局、この屋敷に住むことを許してくれたのは。何も言わないが、いつもさりげなく見守り助けてくれたのは。家を出る度に「いってらっしゃい」と見送ってくれ、帰る度に「お帰り」と迎えてくれていたのは。
何より、あの美しい光景を見せてくれたのは——全部、彼だ。
「……久周っ!」
春海は力を振り絞り、軍服の男の身体をドンと突き飛ばす。そして水に足を取られながらも、畔に向かって手を伸ばす。
「春海っ……!」
久周も手を伸ばしてくる。
「駄目だっ! 絶対に行かせない!」
後ろから軍服の男の腕が伸びてきたのを感じ、春海は咄嗟に非常用のウエストバッグに手を入れた。そこから丹波にもらった御守を取り出し、相手に向かって投げつける。すると男はひるみ、さっと後ろへ下がった。
その隙に、春海は縺れそうになる足で汀——久周の元に向かう。
「春海、あと少しだっ……!」
久周が冷気の壁の限界ギリギリまで手を伸ばしてくる。
次の瞬間、二人の指先が触れ、手がしっかりと絡み合った。
「……オラアアッ!」
久周は叫ぶと、春海の身体を水中から引き上げた。どうやらそれが幽霊の力の限界だったようで、二人はもろともに地面に倒れ込んでしまう。
「久周!? 大丈夫かい!?」
顔を上げると、久周は春海の身体の下で荒い息を吐きながらピースサインをしてきた。
春海はホッと息をついた。
久周の身体は透け、陽炎のようにゆらゆらと揺れていたが、掌の下には相手の、とくとくと鼓動する魂の感触が確かに感じられた。
春海は目尻からこみ上げてきそうになるものを髪から落ちてくる雫とともに拭き、相手に向かって微笑みかけた。
「……僕は君が何者か知らない。でも間違いない。久周は君だ。ずっと僕と一緒にいてくれたのも、僕が好きになったのも、君だ」
「……ありがとう」
久周は微笑み返すと身体を起し、湖の方に真っ直ぐに視線を向けた。
軍服の男は目を細め、感情の窺えない表情で二人を見ていた。水面に反射してできた水紋が、その青白い顔の上でゆらゆらと揺れている。
久周はよろめきながら立ち上がると、男に向かって叫んだ。
「聞いてくれ。あんたの探している人は、ここにはいない。俺が調べた限り、彼はやはり生け贄として身を投げて——」
「嘘だっ……! そんなはずないっ! あいつが生け贄などといった馬鹿げた風習を漫然と受け入れるなどっ……!」
男の周りの水面が波立ち、ゴオゴオと渦を巻き始める。久周は春海の盾になるように前へ出た。
「俺は彼の手記を読んだ。確かに彼は、理性的で論理的な男だった。こんな田舎では浮いてしまうくらいに。だが彼が身を投じたのは、根拠のない風習のためじゃない。自らの罪を償うためだ」
「……お前にっ、あいつの何がわかるんだっ……!」
突然、水面が盛り上がり、荒波となって春海たちの方に向かってきた。
「くそっ、逃げるぞっ……!」
久周は春海の手をむずりと掴むと、走り出す。春海はまろびそうになりながらも、必死にあとをついていった。
久周の手の感触は、霞のように軽かった。だが、今はその幽かな気配を感じられるだけで十分だった。
腕にすがる必要も、誘導してもらう必要もない。彼がただ側にいてくれさえすれば、自分は何でもできるような気がする。一人で立つことも、歩くことも。走ることさえも。
「春海、こっちだっ……!」
声と、片目が映す朧気な久周の背中だけを頼りに、春海はひたすらに走った。すると前方から、ちかりと小さな光が差したのが見えた。
「——ッ!」
ズキリと見えない方の目に、強烈な痛みが走る。痛みはどくどくと波となって、目の奥の血管が破裂しそうなくらいに脈を打つ。
「うっ……あぁっ……!」
春海は立ち止まり、片目を両手で押さえ込んだ。
『逃げようっ!』
目の奥に閃光が落ち、頭のどこかから声が雷鳴のように響いてきた。落ちた閃光は電流のように広がり、徐々に像を結んでいく。
必死の形相で、手を伸ばしてくる男。自分はその男の手を取り、一緒に走り出した。男の背中は広く、白い軍服を着ている。周りに広がるのは、どこまでも続くような青い洞窟。
今と寸分も違わぬ光景だった。
違うのは、目の前を行く男の服が水がたゆたうように時には白いシャツで、時には軍服に変わるということくらいだ。
「『おい、どうしたんだ!?』」
目の前の男が振り返る。軍服の久周と、シャツを来た久周の映像が、両の視界の中でオーバーラップする。
「久周……僕は……ッ」
ひときわ焼け付くような痛みを覚えた、次の瞬間。頭の中が真っ白い光に包まれ、洪水のように次から次へと映像が入り込んできた。
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