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第19話
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お忙しい方のための
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「春海、春海っ!? 大丈夫かっ!?」
久周の声で、ハッと現実に引き戻される。顔を上げると、白いシャツを来た久周が春海の腕を掴み、引っ張り上げるように砂利の坂道を上がっていた。坂道の向こうからはかすかにだが、光の筋が差し込んでいる。
「春海、頑張れ! あと少しで、出口だからっ……!」
前から差す光のせいか、久周の身体は前よりも透けて見えた。春海の手首を掴む手も霞どころか、もはや感触が何も感じられない。たぶん春海が白昼夢にとらわれている間、ある限りの力を振り絞って、ここまで引っ張ってきてくれたせいだろう。
『待て……絶対に……ここからは……出させない……』
後ろの洞穴から、おどろおどろしい声が迫ってきた。振り向くと、軍服の男がひたひたと足音を響かせやってくる。その度、男の足元に広がる水も生き物のようについてくる。
『深影をだせ……彼は……どこだ……』
男の顔には影がかかり、表情はよく見えない。だが深く轟くような声には深い怒りと、哀しみが染みついていた。
「——痛ッ!」
春海は足元の砂利に足を取られ、転んでしまった。すぐさま久周が駆け寄ってくる。
「春海、大丈夫か!? 立てるか!?」
「……目が、目が……痛ッ——」
右目が針で刺されるように痛み、立ち上がることすらできなかった。そうしているうちにも、足音は暗がりからどんどんと迫ってくる。
『無理だ……お前たちは……永遠に……ここからは出られない……俺と、同じように……』
「……チッ!」
久周は舌打ちをすると、春海の顔を覗き込み、真っ直ぐに語りかけた。
「春海、いいか。ここは俺が何とかする。だからお前は、何も考えずただ前に向かって進め! ゆっくりでいい。お前が出るまで、俺が保たせる」
「そんなのダメだっ! 君を、君を置いていくことはできないよっ……!」
「心配するな。俺は大丈夫だ」
安心させるようににかっと笑うと、久周は立ち上がり洞窟の方に足を向けた。久周の冷気がふっと遠くなったのを感じ、春海はぼやけて見えるその背中に手を伸ばす。
「お願い、行かないでっ……! 僕は、君に守ってもらうほどの価値なんてないっ……!」
「守ってなんかいないっ……!」
久周が振り返らず言った。その広い肩はいかり、震えていた。
「今までのことだって全部、春海は自分自身の力と意志でやってのけた! 幽霊屋敷に住むのも、蔵を探すのも、神社に行ったのも! この洞窟に入るのだって、普通の人間では絶対にできないことだった! 俺は、お前のその、恐怖に打ち勝つ強さに勇気をもらったんだ! だから、今度は俺が返す番だ!」
「待っ——」
久周は躊躇うことなく、軍服の男の前に向かって行った。彼は春海と男の丁度間に立つと、道をふさぐように手を大きく広げる。
「それ以上、春海に近寄るな! もういい加減に成仏するんだ! ——じいちゃんっ!」
ぴくりと、軍服の男が反応する。
『貴様、何を言って——』
「あんたは忘れているだけなんだ! あまりにも深影のことを想うあまりに、死んでからもこうして彼を探して屋敷を彷徨っている! でも思い出してくれ! あんたは今際の際、俺にあの屋敷のことを頼んだ。屋敷の秘密を見つけ出せば、この屋敷も遺産も全て俺に分け与えると。あんたがあんなこと言ったのも、深影の消息の手がかりを探したかったからだろう! 最後の最後になって、彼を思い出さずにはいられなかった。俺は調べた。もちろん最初は遺産目当てだった。でも、屋敷のことを調べていくうち、ここで何があったのか、どんな哀しいことが行われていたのか知った。そしてあんたの希望通り、最後の犠牲者である深影のことも調べてみた。でも何もなかった。彼の消息も何も。たぶん彼は、自分のしてしまったことの償い——罪がなくはないとはいえ、村人を殺してしまった罪の意識のために、川に身を投げたんだ!」
『違う、違うっ……あいつが死んだら、俺はわかるはずだっ……!』
男は悶えるように頭を抱え、叫んだ。その足元で水がぶるぶると震え、次の瞬間、久周に襲いかかる。
「……ッ」
水はずるずると蛇が這うように久周の足元から登り、朧気な彼の身体を凍らせていく。
「……ッ、じいちゃん、お願いだから……思い出してくれよ」
久周は這い上がってくる水を一歩一歩足で押しのけ、祖父に近づいていく。
「ばあちゃんは、俺にあんたと同じ『悠紀 』の名前をくれた。あんたのように『大切な人間を守る強さ』が持てるように。ばあちゃんはあんたの過去を知っていた。でも、最後まであんたと添い遂げた」
ハッと男が顔を上げた。その顔には深い皺が刻まれ、まるで一気に五十歳ほど年をとってしまったかのように見えた。すらりと高かった背も、今は孫息子で悠紀あるよりも縮んでいる。
『あいつは……高子は、戦地で行方不明になった婚約者をずっと待っていた……でもいくら待てど、彼は帰ってはこなかった……結婚前夜、彼女は言った……「私たちは残された者同士で、お似合いね」と……』
「俺は幸せだったよ。あんたたち夫婦の孫で。俺の親も絶対にそう思っていたはずだ」
老久周は、はっと夢から覚めたように悠紀の透けた身体を見つめた。見開かれた目に、恐怖の色が宿る。
『……どうして、お前がここにいるんだ……? 何でそんな姿を……?』
老久周は全てを思い出したかのようにがくりと膝をつき、頭を抱える。
『もしかして、俺か……? 俺が、お前を蔵の床から突き落として……?』
「違うよ。俺が勝手に落ちたんだ。じいちゃんがあんまりにもイケメンすぎて、こりゃ負けたなって思ったら足を滑らせちゃって。昔からよくばあちゃんに注意されていたんだ。俺は一つのことに集中すると、周りが全然見えなくなるって」
へへへと笑った悠紀を見て、老久周は力なく首を振る。そうしているうちに彼の周りにあった水たまりが、すうっと背後の闇の中へ引いていく。
『……あの時、俺は、お前が深影を連れ戻しにきた村人だと思って……俺はなんてことを……あまりにも過去に囚われ過ぎて、他に大切なものがあることを忘れてしまったなんて……』
「いいんだ。全て思い出したんだから。俺も、じいちゃんも」
久周は祖父の前に膝をつくと、相手の細く枯れた身体を抱き締めた。
途端、鍾乳洞の奥から、ぱああっと白い光が差してくる。光源などあるはずもないのに、どこかから漏れてくるその光は抱き締め合う二人の身体を包み込んだ。
「先にいってて。俺もすぐ追いかけるから」
立ち上がった久周が祖父に言うと、相手は孫を見、ついでその向こうにいる春海を見てこくりと頷いた。次の瞬間、老人の身体は目映いほどの光に包まれ——消えた。
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