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第20話
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お忙しい方のための
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「悠紀 っ……!」
ゆっくりと坂道を歩いて登ってくる悠紀に、春海は急いで駆け寄った。目はまだ刺すように痛いんだが、今はどうでもいいことだった。春海は悠紀の前で立ち止まると、相手の顔をまじまじと見る。
「悠紀、君は一体——」
「俺は、元帝国海軍、青島久周 少将の孫息子だ」
「じゃ、じゃぁ、僕が途中まで追っていたのは……」
「じいちゃんの遺言で、この屋敷のことを調べていた俺のあとだ。戦後を生き抜くことだけに必死だったじいちゃんは、海運業に成功したあとも家族を守るために、この屋敷のことを顧みる時間はなかった。というよりも、必死に考えないようにしていたんだろう。でも自分の命があと残り少ないことを知って、折に触れてこの集落のことを俺にポツポツと話し始めたんだ。その頃の俺は、自分が財産家の孫息子ってだけで、随分と傲っていた。あちこち遊び回って、危ないことも色々した。バカだよな。死んでから改心したってもう遅いのに。バカは死んでも治らないってのは本当らしい。あははは」
「悠紀……」
悠紀はふるふると首を振ると、春海の頬に片手をかけた。半透明のその手からは、消えかけの蝋燭のように煙がぷすぷすと上がっていた。
「笑ってくれよ。最後に見るのは、春海の笑顔がいい。俺は、お前が穏やかに笑っているのが好きなんだ」
悠紀は一歩進むと、春海の首筋に顔を埋める。透けた悠紀の身体に、ぴたりと春海の身体が重なった。
「お前に会えて良かった。バカなことばっかりしていた俺の人生でも、最後の最後に何か正しいことができた気がする」
悠紀はふっと顔を上げ、坂道の先を指差した。
「真っ直ぐ進めば、出口がある。奎 って言ったか、あいつ意外と良い奴だな。さっき俺が屋敷の幽霊たちに阻まれてお前のところに駆けつけられなかった時、数珠やらお札やらを大量に持って駆け込んできてくれたんだ。何でも屋敷に乗り込んでお前を探すために、近所の神社やら霊能力者やらを叩き起こしてかき集めたらしい。ここに来る前『悪かった』と伝えて欲しいとまで言われたぞ」
春海は震えそうになる喉を押さえ、ふっと微笑む。
「そうなんだ……奎はすごくいい奴なんだ。最高の友達だよ」
「それを聞いて安心した。お前には、お前の味方になってくれる奴がちゃんといる」
ぐうっと、胸の底が絞られたようによじれた。春海は悠紀の徐々に薄くなっていく身体に顔を埋めた。
春海は実体のない悠紀の身体をぎゅっと力いっぱいに抱きしめた。
「嫌だ……行かないで、悠紀……僕は君がいなくちゃダメなんだ……」
「無理だ。それはできない。俺はじいちゃんとあの屋敷の幽霊たちを連れて行かなくちゃ。これからお前が安心して、あそこで暮らしていけるようにするためにも」
「そんなのしてもらわなくてもいい! 幽霊がいくら住んでいたって僕は平気だ! あそこに君がいてくれれば、何も怖いことはないっ!」
悠紀はふっと目元をゆるめ、春海の頬に冷たい手を這わせた。
「春海。お前は俺がいなくても強いよ。最初に会った時から」
「強くなんてない! 僕はいつも他人のことを羨んでいて、ひがんでて……でも恋しくて……一人で何でもやりたがるのも、誰かに『お前なんていらない』って言われるのが怖かったからだ! だから、最初から一人になろうとして——」
「あんたを欲しがっている人間なら、ここにいる。たとえ天で神様が春海を想っていなくとも、俺がお前を想っている。いつでも、どこでも。永遠に。そのことを忘れないでくれ」
悠紀の澄んだ黒い瞳には、一辺の嘘もなかった。だが同時にそれは、彼がもうすぐいなくなってしまうという事実をことごとく突きつけていた。
「君は——」
春海にはもう、流れ落ちる涙を拭っている余裕すらなかった。
「君は僕に宝物をくれた。生まれた時から真っ暗闇の中で生きてきた僕に、光をくれた」
「それなら、春海はもう光の中で生きていける。今度こそ、お前の自身の輝きの中で」
悠紀の透けた手が春海の手に重なり、指を絡める。
「俺のじいちゃんは闇の中で、深影のやむを得ず離すことしかできなかった。けど、俺たちは違う。光の中で——希望の中で、手を離すことができる」
悠紀の顔が近づいてきて、唇が春海のものに重なる。
瞬間、視界を大きな白い波がさらった。その奔流は二人の身体と想いを浚い、一つに溶け合い、大きな流れとなる。
——海だ。
春海は確かに感じた。自分と悠紀の中に、大きな海を。
顔を離すと、洞窟の奥から再び白い光が差してきた。その光を受けて悠紀の身体の輪郭は黄金色に光り、春の雪のようにキラキラと煌めきながら溶けていく。
日が昇り始めたのだろうか、坂道の先——春海の背後からも、夏の気配を感じさせる温かい光が差し込んできた。
「さぁ、行って」
悠紀はつないだ手を回し、春海の身体を出口の方へと向けさせる。そして、最後の力を振り絞ってその背中をふわりと押した。
「悠紀っ……!」
春海の身体は前に進みながらも、手はまだ悠紀のものに指を絡ませていた。お別れの時がくるのだとしても、最後の最後まで、この手を離したくはなかった。
「また会える? 何百年後でもいい」
春海は悠紀をジッと見た。相手の顔はもはや表情がわからないくらいに透けて、今にも背景と同化しそうであった。周りを囲む光たちは玉となり、蛍のように辺りをふわふわと舞いながら消えていく。
「そうだな。何百年後なら会えるかもしれない。その時を楽しみにしているよ」
悠紀は笑った。春海も笑い返そうとしたが、うまくいったのかわからなかった。
「じゃぁ、また会おう」
そう言ったのは、どちらだったか。
最後の最後まで繋がっていた指先はするりと解け、手が離れる。すると洞穴の奥から差していた光が一層強くなり、悠紀の身体を完全に包み込んだ。
「春海。愛している。生きてくれ」
光の中から、声がした。これまで何度も何度も、春海を導いてくれた声。
やがて、悠紀を包み込んだ光は膨れあがるように大きくなり、パンと弾け霧散した。
かすかな光の結晶が舞う中、最後に残ったのは、何の変哲もない鍾乳洞の坂道だった。
「うっ……」
目元を袖でゴシゴシと拭いながら、春海は砂利の道を登っていく。見えている方の目はまだちくちくと痛み、視界が二重三重とかすむ。
涙がでてきて止まらなかった。何度拭いても一端椻を切ってしまったそれは、もう元に戻すことはできない。最後の一滴まで流れるのを待つしかなく、春海はただ泣き続けた。
悠紀は逝ってしまった。
もう会えない。二度と。
それでも、自分は歩き続けないといけないと実感する。「生きてくれ」と彼が言ったから。
(……大丈夫だ、僕は……)
たとえこの先の人生が、どんな暗い闇にとざされていたとしても、自分はもう光を見つけた。彼と過ごした時間は短い。でも彼が与えてくれた一瞬の光は、この先の自分の人生を照らすには充分すぎるほどだった。
あとは、この光とともに歩いていくだけ。
(だから、今だけ……今だけは、泣かせてくれ)
洞窟から出るなり、カッと強烈な光が網膜を差した。昇ったばかりの無垢で夏の熱気を含んだ太陽が、雲一つない青空の中、燦々と輝いている。
初めて見る太陽。
眩しさで焼けそうな目を伏せると、目の前に渓流が広がっているのが見えた。
サラサラと流れる水の流れは穏やかで、川面に朝の光が当たってキラキラと反射している。向こう岸にこんもりと見える森は一面、目にも鮮やかな新緑で、涼しい風と遊ぶようになびいている。
誰もかつてこの川が荒れ川で、多くの人が身を投じたものだとは信じないだろう。
(……きっと深影 もここから——)
水が流れていく方向を見やり、目を見開く。
春海の立っている場所は山の中腹らしく、麓の景色が一望できた。すぐ真下には神社の赤い鳥居があり、少し先には小さく密集した集落が見えた。
そして、そのさらに奥——。
(もしかして、あれが——奥多摩湖?)
山の中腹から見渡すそれは、古代から変わらぬ緑の連峰に囲まれ、広大な青緑の色の湖面を湛えていた。
——まるで海みたいだ。
春海は長い間、入口の岩に肩を預け、じっと奥多摩の悠大な自然を見つめていた。どれくらい経ったあとだろうか、遠くから自分の名前を呼ぶ声がした。奎だ。たぶん自分を探しにきてくれたのだろう。
春海はもう一度鍾乳洞の入り口から、氷川、そして奥多摩湖を見やった。
あれほどまでに痛んでいた目の痛みはもはやなく、代わりに視界の端から徐々に闇がせり上がり、見える部分が少なくなっていくのを感じた。
それでも、目を外すことはできなかった。この景色を一つ残らず目に焼き付けなければならなかった。
悠紀と出会い、そしてこれから自分が生きていく場所を。
やがて、世界は再び闇に包まれた。
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