2 / 34

第2話

思えばこの時から少しずつ、拭えない悪い予感が足元をくすぐるように競り上がってきていた。 だがおめでたい俺は現実に思考が追い付いていなかったので、当時の店長やスタッフからの送別会という名のラストスパートフルタイム連勤 (今月分の予算達成に貢献してから新店舗頑張って壮行会、当事者含む)を申し付けられていた。 引継ぎやら顧客様へのお礼状、そしてお世話になった周辺ブランドへのあいさつ回り等もろもろ忙しなく動き回り、気が付けばめでたく新店舗オープンに向けての事前顔合わせ日を迎えていたのであった。           フラペチーノが有名なおしゃれな喫茶店の一角を、平均年齢30代のむさくるしい男どもが身を寄せ合いソファー席を陣取っていた。 「初めまして、店長の北川吉輝です。このブランドは吉祥寺店で5年経験しているから安心してください。」 店長の北川は丸っこく、それでいて筋肉質で釣りが趣味らしい。多分痩せたらかっこいいだろうなと失礼なことを思った。 「北川店長と同じ店に働いていた藤崎勇です。自分は3年経験していました。一応副店長です。」 サブの藤崎は、180㎝はあるだろう。背は高く顔立ちは整っているが、きっと元ヤンだ。 「坂本洋次です。留学経験があるので、インバウンドの人が来たら任せてください!」 洋次は服飾系の大学を中退し、3年間留学を経験。 平均的な顔立ちながら、惹きつけるものがある。いわゆる雰囲気イケメンだった。 「カジュアルブランドで働いていました、旭理人です。自分は外資は未経験なので足を引っ張らないように頑張ります。」 あれ?もしかして一番俺がなんもないんじゃね?と思ってしまうような、そんなメンツである。 旭は内心焦りはしたものの、アパレル自体は経験がある。余り物怖じしないようにと居住まいは正したものの、なかなかにキャラクターの濃いメンツだった。 「旭君は両方とも名前みたいだね。」 「それ、言われ慣れてます。好きな方で呼んでください。」 「じゃあ旭で。俺のことは店長以外で呼んでね。」 打ち解けられるかと顔に不安と書いてあったのか、さっそくコミュニケーションを取ろうと、北川がふくふくとした笑みで話しかけてきた。 「今まで通りだと北川さんのままですね。俺も隣にならってサブ以外で。」 「藤崎さんですね、俺も坂本でいいですよ!」 「じゃああえて洋次な。」 「俺だけ仲間はずれですか!でも旭さんいるし傷は浅いかも。」 「いやだから俺は苗字だって、それ」 例にも漏れず苗字名前問題で盛り上がりを見せたが、顔合わせは滞りなく終わった。 自分の個性は仕事を通じて見つけていけばいい。 喫茶店での自己紹介は、旭が思っていたよりも滞りなく終わり、その後百貨店の関係者との顔合わせでは、同じ専門学校の卒業生である柴崎がバイヤーとして活躍していることがわかった。 「柴崎先輩!!!!」 「旭じゃねーか!!!」 と、思わず熱い抱擁を交わしてしまった。 だってまさかのまさかである。確かに卒業した専門学校はこの地区にあるが、柴崎の卒業後の進路は謎に包まれていた。とはいうものの、単純にアサヒガキイテイナカッタだけなのだが、まあとにかくこの顔合わせは、緊張していた旭にとっては嬉しい誤算だった。 シニアマネージャーの咳払いと北川による「旭くん。」にあえなく引きはがされてしまったが、少しだけ明日からの出勤が楽しみになった。 老舗百貨店は、その土地に根付いて長くあるせいか、お客様からのご意見やらニーズは常に質の高いものを要求される。 それに対して、一歩進んだ接客でご満足頂くのが我々のモットーであるが、やはりその質にかんしても経験値が物を言う。なんでこんな小難しい事を朝っぱらから思ったかというと、ある程度想像はしていた百貨店特有のイベントが、突然やってきたのである。 「俺が来るってわかっていながら、どうしてコーディネートを用意していないんだ!?」 酔っているのだろうか。顔を赤らめた爺様が、熟柿臭い呼気を吐き出しながら演説するように怒鳴り散らした。 「お客様にご足労おかけした挙句ご期待にそえず大変申し訳ございません。」 35歳の店長は丸い体を小さく折りたたむ。腹の肉に引き込まれた24000円のシャツが悲鳴を上げているような気がして、旭は目を逸らした。 「おれはこの百貨店では知らないやつはいない特上顧客だぞ!?お前らみたいなたるんだブランドがあるから百貨店の評判も下がるんだ!!わかってんのか!!」 「ご意見謹んで頂戴いたします。ご鞭撻いただき誠に有り難うございます。」 「今日の件はお前らのブランド名指しでクレームつけるからな!!覚悟しておけよ!!」 「ご来店有り難うございました。またのお越しをお待ちしております。」 フロアで有名な悪質クレーマーの姿が見えなくなるまで、見送った店長はふう、と詰めた息を吐き出した。 「気が狂ってやがる。」 菩薩を彷彿とさせるような穏やかな微笑みで吐き捨てる。店長がそう言うのは仕方がない。何故なら、手前どもとしては貴方など存じておりませんが状態だったからだ。まあ、要するに初見も初見、そんな約束取り付けてさえいなければ、なんならオープン初日なんですけどと思った。 「いやもう、またのお越しは無にしていただきたいですね…。」 「帰りに血圧がってぶっ倒れてくれれば文句は言わないさ。」 「北川さんまじで店長なんですからもうちょっとオブラートに包んでください。」 百貨店ってなんとなくだけど、前に努めていたファッションビルよりもハイランクなイメージのはずだったのに…。旭は内心引きながらそんなことを思った。自分の想像とかけ離れたギャップに、思わず重いため息が出たのは許してほしい。 「魔窟…。」 え、俺こんな突飛な客達相手にしなきゃいけないの?そう思うくらいには、もう初日から見事に洗礼を受けた。 お客様は神様です。販売員という職種には、つねにこのサブタイトルがつきまとう。 時にストレスのはけ口のように扱われるこの仕事を選んだ旭は覚悟はしていたのだが、なんだかもう、初日から挫けそうだった。

ともだちにシェアしよう!