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第6話

朝の電車は考える時間が多すぎて、あまり好きじゃない。旭は電車の座席に腰掛けながら、ぼうっと景色を見つめていた。 サラリーマンのスーツの隙間から、微かに見える風景。いきも帰りも満員で、まだまともに見たことはなかった。 電車で45分。これが長いのか短いのかは分からないが、考え込むには長いのかもしれない。 どうしても前の仕事と比べてしまう自分が女々しくて、そして嫌な思いをして辞めたのに、まだ未練があるのかと悔しくも思った。 まだ働いてひと月もたってないのに、もう辞めたくなっている。 これは旭の悪い癖だった。 最初は、周りが見かねたのが理由だ。『無理しない方がいい。よく頑張っているから、休んだ方がいい。』 直属の上司じゃなく、周りからってとこがポイントで、誰が見てもやばかったらしい。 「まだ、やれます。」 あの時はだいぶ頭の中がキマっていた。 髪はパサパサ、肌は土色、普通に話しててもかすれる声。常に神経が研ぎ澄まされ、緊張のせいか動きが不自然になる。 首はかきむしったせいで夏でもハイネックしか着れないし、何も悲しくないのに流れる涙や、毎日吐き気と過呼吸に悩まされていた。 自分でもおかしいと気づいたのは、頼まれた数十着程度のサンプルのアイロンがけを必死にやっている途中で、意識を失ったことだった。 失神は数分程度だった。後頭部にたんこぶが出来て、直属の上司が慌てて顔を叩いてくれたおかげで目が冷めたが、第一声が「早くアイロンの電源切って!」だった。 会社の備品だし、壊していたら事だったので、そのときはなんとも思わなかったのだ。 見かねた誰かに連れて行かれた心療内科で、適応障害が原因の自律神経失調症と診断された。 奪い取られるように旭の手元から消えた診断書を理由に、入社してから初めて行った直属の上司二人による三者面談。 「旭君のせいじゃないけど、最近周りがピリピリしててね。」 「辞めます。」 条件反射だった。半年間、上司の顔色をうかがいながら行動してきたので、何を望まれているかが手に取るように分かったのだ。 言われる前に行動を起こすようにと、さんざん言われてきたおかげか、気を使いすぎるせいなのか、辞職を指すワードを上司の口から言わせないために、ポロリとでた言葉。 満足そうな、それでいてほっとするような顔色に、その時ばかりは涙も出なかった。 目の前で教えてもらいながら辞表を書かされるというのは、なかなかに笑える光景だ。 皮肉なことに、今まで教えてもらった中で一番丁寧で、優しかった。 ぼんやりしていたら気が滅入ってきた。稀に思い出す過去の出来事から気持ちをきりかえようと、すうっ、と肺に空気を取り込んだ。 途端に香水や喫煙臭埃っぽい布の香りが一気に体を通り抜け、這い上がるような嫌悪感に身震いした。 「ぅぐ…、っ」 ぎゅるり、と喉が鳴る。旭には身に覚えがありすぎる経験だった。じわじわと後頭部から思考が熱く、ぼやけていく。 足元がフワフワして、座っているのに平衡感覚がない。視界が赤と紫の砂嵐に覆われて行くのを、呼吸を整えながらやり過ごす。 普通に歩いてたらアクティビティか何かだと脳みそが勘違いしてくんないかな。と、のんきなことを思った。 思考できるから、まだ大丈夫だ。 滑り込むように電車がホームにつき、事務的なアナウンスが横浜についたことを知らせる。 あとは人波が去ったら、一呼吸おいて立ち上がる。右足を踏み出して、かかとがついてから左足を踏み出す。 今は意識する。どうやって歩くんだっけ?歩行歴25年のプロだ。今は初心に返っているだけだ。 言い訳しないと動けないのか? 自分の内側から、皮肉な声でそんなふうに投げかけられる。 やめろ。今やってるのに邪魔するな。 呼吸がはやくなる。立て。駅員さんに迷惑をかけるな。頑張れ俺、足に力を入れろ。手すりにつかまれ。 俺は大人だから普通に歩けるし働けるし。 「はは、」 電車から降りるとホッとした。ふらふらしながらベンチに座る。 なんだか悔しくなって膝を叩くが、力が入っておらず、口端から唾液が滲んだ。 なんだか具合も悪いし、酸素が足りてないのか呼吸も苦しい。 ああ、泣きそうだと下を向いていたせいで、その影には気が付かなかった。 「朝っぱらから膝でリズムでもとってんのか。」 「…ば、さきさ」 おはようございます、は出なかった。 よう、昨日ぶり。とニコニコしながら声をかけてきた柴崎に、この人は体調が悪いことに気づかないのかと投げやりな気持ちで見上げた時だった。 すうっ、と大きく息を吸い込んだ柴崎が、そのまま叫んだ。 「朝の挨拶運動――――!!!!!!!」 駅のホームの中心で、柴崎の大きな声が大きく響いた。 「あ……?」 「おっはようございまーーーーす!!!」 「ちょ。っ…うるっせ!!!!」 体調の悪さなんて忘れさせられるくらい、慌てた。 それぐらい突然で、動揺して、思わず柴崎の口を両手で塞ぐ。何やってんだまじでと、フラフラしながら取りすがるようになってしまうが、当の本人はというと、それはもう意地悪な笑顔で旭を見つめた。 ひくっ、と口が引きつる。おいやめろ、旭の声のない悲鳴が響く。

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