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第9話
結局その日は鬱々とした気持ちのまま帰宅した。見慣れたグレージュの鉄の扉に鍵を差し込み、カチャリとかしこまった音を立てて扉を開ける。
旭の部屋は至ってシンプルだ。趣味も特にないので、我ながらつまらない早だなあと思う。
買ったばかりのようにきれいなテーブルの上にスマホを置いて、まずは着替とシャツのボタンを外そうとした。
柴崎から連絡が入ったのは、鞄を置いてすぐだった。ピコンという軽い音に目をやれば、
おねだりをするような猫のスタンプと共に「内覧会のお知らせ」と続くお誘いだった。
「…むむ、」
明日休みなら遊びに来いという意味らしい。変な言い回しに、一瞬意味を捉えかねたが、明日の予定はフリーだったことと、柴崎がどんな家に住んでいるのかの興味で「荒探しに伺います。」と了承の返事をした。
まとわりつくような冷気に肌寒さを感じる。
この駅名は知っていたが、初めて降りた。
各駅でしか止まらないくせに、駅前には気の早いイルミネーションでライトアップされた大型ショッピングモールがある。
こんな早くから飾り付けをして電気代は幾らになるのか、などと下世話なことを毎回思う位には、旭にとってそのイベントはご無沙汰だ。
『恋人達の鐘』という謎のオブジェが怪しい雰囲気を醸し出していたが、ある意味この時期ならではである。
自分に恋人がいたとしても、絶対お世話にならないだろうそれには相性診断機能があるらしく、場合によっては修羅場作成機へと変貌しそうで、それだけはちょっとだけ面白そうだった。
フットワークは軽く、今電車乗りました。というやりとりから15分ほどで到着した。ついたら連絡しろとのことだったが、駅前の喫煙所で上下スウェット姿の柴崎が、手すりにもたれかかったまま寒さに震えている姿を見て、思わず噴き出した。
連絡するまでもない。というか何だその格好。
「柴崎さん、なんつー恰好で表にいるんですか。今日13度ですよ?」
「ぬかった…、家近いからパジャマでいいかと思ったんだがくっそ寒い。」
「パジャマで外でないで下さいよ!風邪ひく前に案内してくださいね!」
「肉まん食いたい。寒い。おんも怖い。」
身長173センチの旭より10センチも高いのに、寒さのせいで縮む柴崎はなんだか頼りなさげで少し面白い。鼻の頭をあかくさせ、ずびびと啜る。
子供の頃から風の子だったから、と意味のわからない言い訳をする柴崎にあきれながら、尻をたたくようにして戯れる。
待たせたつもりはないが、お詫びと手土産代わりに、ご要望の肉まんとつまみ、ビールをコンビニで買い込んだ。
「後輩の金で食う肉まんうめー」と耳まで寒さで赤くしながら笑う柴崎を見て、なんだかんだ無邪気だよなこの人…と少し可愛らしく思う。
職場ではバイヤーとしての顔も知っている分、オフのときとのギャップにころっといく人もいるだろう。
旭は自分が女だったら、こんな人と…と思い、不毛な考えは意味を結ばないことに気づいて途中でやめた。
駅から近いというだけあり、途中コンビニに寄った時間を入れても10分しないうちに根城に着いた。旭はその建物を眼の前に、呆気に取られたようひ見上げてしまう。それ程柴崎に似つかわしくない、薄桃色のかわいらしい外壁だった。
「夢の国にあっても違和感ないんじゃないですか。」
「お前はロマンチストだな。ラブホに住んでんのかって言われたことあるぜ。」
旭が思っても言えなかったことを言った猛者がいたらしい。
大家が代わったタイミングで、勢いに任せて大改修した結果だそうだが、アラサー男が住むにはいささか厳しいものがある。
立地と家賃に納得しているため、このメルヘンアパートから抜け出せないらしく、「時には妥協って大切だよね。」などとのたまっていた。
柴崎の部屋は、独特な雰囲気を醸し出していた。生活感はあるが、何かが足りない。キッチンにおかれたコンビニの景品であろうコップに毛先が開いた歯ブラシと、デンタルフロスが妙に生々しかった。
「なんか不思議な部屋ですね…」
「幽霊とかいないから安心しろ。」
「ついでに女っ気もない」
「お前は俺のスキャンダルでも期待してたのか。」
「カギにファンシーなウサギさんつけてるから、てっきりいるもんかと思いましたよ。」
ほらそれ、と柴崎の尻ポケットで揺れていたウサギを指さす。
「あぁ、これね。むき出しのままじゃ不便だから余ったのくっつけた。」
「余ったの?」
「これ、紳士フロアで配布してたノベルティ。」
チャリ、と音を立てながらおかれたウサギのピンク色が、妙に年季が入ってるのに気づく。
横向きに寝転んだマスコットから、期待はずれだったかい?と言われているような気分だ。なんだかバツが悪く感じ、ふーん、と気のない返事をした。
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