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第2話
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人間の住む所じゃない――それがそのアパートに対する、黒河の第一印象だった。
『美園荘』という、冗談としか思えない看板がかかったその建物は、築年数相当と思われる木造の2階建てだ。昭和の遺物のごとき佇まいは作り物めいていて、映画のセットか何かを思わせ現実味が薄い。
細部に至っては、とにかくひどい。
モルタルの壁はところどころ剥がれ落ちて地肌を剥き出しにし、汚い雨水の染みを作っている。上下それぞれ3室ずつある安手のドアの化粧板はすべてベロベロに剥がれ、郵便受けからはダイレクトメールやチラシの束が入りきらずに溢れている。とどめに地盤が緩んでいるのか、建物全体が少し左に傾いて見える。
裏手には鬱蒼とした林を背負い、夜10時というこの時間では、建物の輪郭は深い闇に完全に埋没してしまう。周囲にはコンビニどころか、人家の一軒もない。
アパート自体も、明りの点っている部屋は一室もない。凍った真冬の満月の落とす光だけが、唯一の明りだ。
6つの部屋の中でただ一つ表札のかかっている、1階端の部屋の扉に背をもたせ、黒河は煙草に火をつける。
凍える外気に晒されながら、待つこと1時間。
大した時間ではない。ここを探し当てるのに要した半年という期間、そして、かつて一度見ただけの『亡霊』に惑わされてきた数年という歳月を考えれば、夜通し待とうとどうということはない。
月を、風に流された雲が隠す。明りは黒河の咥えた煙草の先端の、赤い炎だけになる。
鼻をつままれてもわからない闇の中、黒河は近付いてくる微かな足音と人の気配を感じ取った。動物的なまでに研ぎ澄まされた感覚を持つ黒河だから感知できる程度の、それは微かな気配だ。
近付いてきた人物は、黒河の3メートル手前で足を止める。雲が流れ、青白い月の光がそのろうたけた美貌を浮かび上がらせる。
4年ぶりの再会に一方的に感慨深いものを感じ、黒河はわずかに目を細めた。
知的な輝きに満ちたアーモンド型の澄んだ瞳。品のいい目鼻立ち。夜目にも映える紅い唇。
4年前のあの日、霧雨の下、亡霊さながらに佇んでいた青年は、さらに美しく成長していた。
顔立ちを見ると、確かに同一人物だ。だが年月は彼に、内面の不安定さを上辺の落ち着きと知性でカバーし、他人に悟らせない術を身に付けさせたらしい。
興信所の調査結果によれば、当時20歳だった彼は今24歳のはずだが、その年齢に比して大人び、まるで悟りを開いた名画の聖人のごとく見えた。年齢相応の若々しさのない達観したその顔は、整っているだけに不自然に映る。
眉一つ動かさない表情から、その心は読み取れない。
黒河のことを覚えているのか、いないのか。
いや、おそらく忘れてしまっているだろう。ほんの1分にも満たない、一言の言葉も交わさない、些細な出会いだったのだ。
それをしつこく4年も覚えていたのは、きっと黒河の方だけだ。
青年は謎めいた微笑を浮かべたまま、黒河に静かな視線を上げている。自分の部屋のドアの前にふてぶてしく居座る、いかにも曰くありげな酷薄そうな男を見ても、わずかにも動じない。
「僕に、何かご用でしょうか」
澄んだ綺麗な声が問う。
190センチに届く長身と、レザーのコートの上からでもわかる逞しい肉体。隠せない目付きの鋭さ。全身から危険な雰囲気を滲ませている黒河を前にしても、その声に怯えた響きはまったくない。
肝が据わっているというのとも違う。単に感情の起伏がないだけにも見える。
「藤代 恵 か」
居丈高な黒河の問いにも青年は微笑を崩さず、
「そうです」
と、答える。
「藤代実 の息子で間違いないな」
「確かに実は父ですが。あなたは?」
「おまえの死んだ親父さんと、まぁ、ちょっとした所縁の者だ」
「父のお知り合いの方ですか。では、父のことで何か?」
「親父さんとは関係ない。用があるのはおまえだ。ぶっちゃけて言おう。もしもおまえが今困っているなら、俺に援助させてもらいたい」
無表情な青年が、ほんの少しその賢そうな瞳を見開く。
「どういうことでしょう。おっしゃる意味がよくわかりません」
「簡単な話だ。俺はおまえの親父さんに借りがある。その借りを、息子のおまえに返したい。生活面やら何やらで、俺が経済的に助けられることがあれば言ってくれ」
一瞬だけ見せた微かな驚きは消え去り、読めない微笑がその口元に戻ってくる。
「そういうことでしたら、別に何も」
あっさりと、彼は言った。黒河は肩をすくめ、苦笑する。
「すぐに信用できないのはわかる。いきなり現れた知らない人間にそんな都合のいい話を持ちかけられても、何か裏があると思うのは当然だ。だが、信じてもらうしかない。何の思惑もない。見返りもいらない。俺はおまえに、そうしなきゃいけない義理があるんだ」
「では、その貸しは帳消しにしましょう。元々父がお貸ししたもので、僕には関係ありません。父の死で無効になったと思ってください」
「おまえのことは少し調べさせてもらった。こう言っちゃなんだが、そう余裕のある暮らしぶりとは言えないようだが」
「余裕はお金ではなく、自分の心が作り出すものです。おかげさまで、僕は満ち足りていますから」
「今にも倒壊しそうなこのオンボロアパートは、そんなに居心地がいいのか?」
「多くを望まなければ、暮らすには十分です」
無条件で金を出すと言えば、多少は疑っても普通の人間なら心を動かされるはずだ。現に、黒河の周囲の人間は皆そうだった。
しかし目の前の青年は、作り物めいた静かな微笑をまったく動かさずはねつけた。貧しさは心を蝕み、内面の豊かさを奪っていくものだが、彼は涼しい顔で、心の余裕は金では得られないと言う。
「一つ聞かせてもらおう。おまえは今の生活に不満はないと言う。つまり、今のままで幸せなのか?」
青年の瞳の色が陰った。それはほんの一瞬、一秒にも満たない間で、微かな目の動きだけで人心を量ることに長けている黒河でなければわからないくらいの微細な変化だった。
「幸せですよ」
紅い唇は微笑を形作ったままそう言った。口調は穏やかで、わずかな迷いも見せていない。
だが黒河の胸の隅には、確実に何かがひっかかる。
貼り付けた仮面めいた微笑。迷いのない言葉。その陰で本当の彼が、答えを躊躇した気がしたのだ。
あのときと同じだ。
その大人びた仮面の奥に、彼は真の顔を隠している。飛び込もうか飛び込むまいかと底なし沼をじっと覗き込んでいる、そんな空白の表情を。
「本当か?」
本当に幸せか。おまえを縛るものから、もう解き放たれたのか。自由になれたのか。
そう聞きたかった。
「はい」
繰り返す黒河に、彼はみじんも崩れない完璧なポーカーフェイスで答える。月光が照らし出すその顔は血の通っていない、陶器の人形めいて見えた。
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