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第5話
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夜6時の終業チャイムと共に、大勢の従業員が狭い出口から吐き出されてくる。
学校の体育館並みの規模のその部品工場に、一体どのくらいの人間が働いているのかはわからない。出て来る人波は絶え間なく続き、その誰もが例外なく背を丸め、人生に夢も希望も見出せないといった顔をしている。
今時珍しい前世紀の遺物的な暗い灰色の建物を、出所してから足代わりに買った車にもたれかかり黒河は見つめる。
藤代恵は平日の9時から6時までを、この陰気くさく労働条件も上等とは言えなそうな工場で働いている。月火木金は仕事が引けてから10時まで夜学の神学校に通い、水曜はボランティア、土日は終日教会の奉仕だ。
びっしりと詰められたスケジュールには隙間がない。彼自身の時間というものが、まるで見えてこない。
『品行方正でいたって真面目な暮らしぶり』と興信所の調査報告にはあったが、勤勉に働き勉学に励み、余暇は教会奉仕かボランティアで満足する24歳など、黒河に言わせれば気色悪いだけだ。
世知辛い社会で善人ばかりではない他人に揉まれ生きている以上、そんなにお綺麗でいられるわけがない。うまく隠してはいても溜まってきてしまう鬱憤は、どこかで晴らさなければやっていられないはずだ。
蒼白い月光に照らされた、藤代恵の人間味のない整った顔を思い出す。
あの気取ったポーカーフェイスの、一体どこに秘密をしまい込んでいるのか。それが知りたい。
これほどまでに一人の人間に、純粋な興味をかきたてられるものも久し振りだった。努力せずとも大抵のものは手に入れられ、人にも物にも執着しない自分にしては珍しいことだと、黒河は我ながら不思議に思う。
待つこと10分。人の流れがまばらになってきたあたりで目的の人物をみつけ、黒河は寄りかかっていた愛車から身を起こした。
まさしく掃き溜めに鶴、土気色の疲れきった顔の人間に埋もれていても、藤代恵は際立って目立っていた。遠目にもわかる端正な美貌の中、涼やかで思慮深い瞳は迷いなくまっすぐ前をみつめている。
過酷な労働に安月給。いい加減うんざりし、他の連中同様無気力になるのが普通だろう。
だが、彼は変わらない。昨夜月光の下で見たときと同じ、気高いほどの透明感と、俗世臭を感じさせない達観した気をまとっている。
しかし、それは生き生きと輝いているというのとは違う、どこか冷めて悟りきった清廉さに見えるのだ。
一歩前に出た黒河を認め、藤代恵は形のいい唇に例の読めない微笑を浮かべた。無視できない存在感を放つ黒河に周囲の視線が集まる中、恵はためらいなくまっすぐに近付いてくる。
「こんばんは」
綺麗な声が丁寧に挨拶した。
「どうだ。一晩考えて気は変わったか?」
黒河が尋ねると、相手は困ったように苦笑してみせる。
「そのお話でしたら本当に、何度来ていただいてもお返事は変わりませんので」
「この今にもぶっ潰れそうな工場で日がな一日立ちっ放しで、出来損ないのネジ一つみつけるのがそんなに好きか。おまえがうんと言えば今すぐ、勉強だけに専念できるようにしてやる」
「どんな仕事でもやりがいはみつけられるものです。失業されている方も多い中で、働く場所があるだけでも本当にありがたいと思ってますよ」
黒河は露骨に舌打ちした。優等生そのものの答えは、まるで公共放送の出来すぎた台本さながらだ。それなのに目の前の男は何のてらいもなく本心から、その台詞を口にしているように見える。
「綺麗事を聞きたいわけじゃない。本音を聞かせろ。キリストさんも言っていたはずだぞ。汝嘘をつくことなかれ」
黒河の言葉に恵はわずかに目を見開くと、驚いたことに声を立てて笑った。終始つけている聖人の仮面にひびが入り、その一瞬だけ年相応の笑顔がのぞいた気がした。
「まさか、あなたから十戒を聞かされるとは思いませんでした」
「釈迦に説法で恐縮だ」
「では、リクエストにお応えして、本音を」
相手が全く躊躇せず距離を詰めて来たので、逆に黒河の方が身を引いてしまう。
近寄りがたい硬質な暗さを背負っている黒河は、他人の本能的な警戒心を煽る。一般的に相対した人間同士が危機感を覚えないとされる1メートルを越えて接近できる人間は、組員でもかなり気を許している側近クラスか、ベッドの相手しかいなかった。
躊躇せず近寄ると背伸びをし、黒河の耳元に唇を寄せてきた青年からは、清潔感のあるいい香りがほのかに漂ってきた。
「ネジの中にネジ山のない不良品があって、みつけるとすごくいいことが起こるっていうジンクスがあるんです。実は、毎日それを探しに来てるんですよ」
内緒話を打ち明けるように囁いてから、恵はスッと身を引く。
冗談だか本気だかわからない話に、黒河は眉根を寄せ肩をすくめる。そんな黒河を見て、彼はどことなく嬉しそうに笑った。
「もう6年ここで働いてますが、いまだにみつかりません。幸運は、そう簡単には転がっていないようです」
ポーカーフェイスを崩した一瞬の笑顔を幻のように消して、恵は黒河に背を向け歩き出す。
オフホワイトのジャケットの背には、羽根の絵と『Angel Wing』の文字。
天使の羽根を背負うに相応しい容姿。だが黒河の目にはその羽根が、なぜか傷付いているように見えてしまう。
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