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第6話

「おい」  呼び止めると振り向いた。 「今日はボランティアの日か。どこでやってるんだ。送ってやる」  一般庶民レベルでは滅多に乗れない高級車のボディを叩くが、恵は困惑した微笑を見せるだけだ。 「僕の1日のスケジュールも、すべて調べてらっしゃるんですか?」  そう聞いた声はただ戸惑っているふうで、不快げではない。 「一応な。実際何をやってるのかは知らないが、今日は見せてもらおう。乗れ」 「会場の夕焼公園は、ここから歩いて10分です。送っていただくほどの距離ではありませんから。あなたはどうぞ、お車で」  黒河は嘆息し、涼しい顔で言い捨てさっさと歩いて行ってしまう恵の隣に並んだ。  工場脇のオープンパーキングは空きだらけだ。夜通し駐車していても文句は言われないだろう。  傍らに並んできた黒河を見上げ、恵はほんの少し口元の微笑を深くしたようだ。 「あなたのことを、何とお呼びすればいいでしょうか?」 「名前なんかどうでもいい。好きなように呼べ」  名乗って下手に昔の事件をほじくり返されたら厄介だと思い、とっさに答える。 「はい。では……」  と言って小首を傾げ、何か考える仕草の後、相手は口を開く。 「ポロンさんは、今後もこうやって僕の暮らしぶりを逐一確認するつもりなんですか?」  自分の呼称だとはまさか思わず、さすがの黒河も返事がワンテンポ遅れる。 「ちょっと待て。何だ、それは」 「質問の意味がわかりづらかったでしょうか。つまり、あなたはこれからも……」 「そっちじゃない。呼び方の方だ」 「好きに呼べと」 「言ったが、理由がわからんと気色悪い。俺はおまえのペットじゃない」 「木下動物園で2ヶ月前に間生まれた黒豹の子の名前なんです。見ましたか?」 「見るわけないだろう」  本気で聞いているのだろうか。それとも、からかわれているのか。  黒河はさらに眉間の皺を深くする。 「新聞の地方版に写真が載ってました。すごく可愛かったですよ。……見たいな」  最後のそっとつぶやかれた一言が、なんとなく仮面をつけない素のままの彼から発せられた気がして、思わず横顔を見返した。だが取り澄ましたモナリザスマイルに、特に変化は見られない。 「だから、どうしてそれが俺の呼び名になるんだ」 「あなたの前世が黒豹っぽいから」 「前世だと? おまえ、キリスト教じゃないのか」 「そうですよ」  まったく悪びれず相手はにっこりと微笑む。黒河が不機嫌な顔になればなるほど嬉しいようだ。どうやら、明らかにからかわれている。 「猫に毛の生えたような獣の小僧と一緒にするな」 「お気に召しませんでしたか。では旧約聖書から……」 「黒河壮司だ」  仕方なく名乗った。この上アブラハムだのモーセだのと呼ばれてはたまらない。  本名から過去を手繰られ親の仇だとバレたところで、実際そのとおりなのだから言い逃れしてもしょうがないと、黒河は腹をくくる。  憮然としている黒河に澄んだ目を向け、恵は驚くほど嬉しそうに名を呼んだ。 「黒河さん」  忘れてはいけない大切な呪文でも唱えるようなその響きに、黒河は当惑する。  どうも調子が狂う。彼の表情の変化一つ一つに、我知らず引きずられてしまう。澄ました神秘の微笑が崩れ、時折素顔が覗くたびに、乾ききった胸に穏やかな風が吹く。  深入りしてはいけない。  心の中で自分を戒め、黒河は意識的に話を戻した。 「質問の答えだが、当面そのつもりでいる」 「僕に援助を受ける気が一切なくてもですか?」 「そうだ。理由は二つ。一つは、俺自身が暇を持て余していること。もう一つは、俺にはおまえが今の生活に満足しているようには見えないということだ」  相手の表情は昨夜『幸せか』と聞いたときのような、一瞬の揺らぎを見せてはくれない。 「なぜでしょう? 経済的に貧しい人間が一概に不幸とは言い切れない。幸福か不幸かは、あくまでその人の心の持ちようでは?」  出来上がった笑みを浮かべ、若者らしくない悟りきったことを言う。昨夜と同じ不快感と違和感が、黒河の胸に再び蘇る。 「おっしゃるとおりで、俺も同感だ。その前提で、俺はおまえが満足していないと感じた。これは勘だ」 「勘……黒河さんの勘は当たる方ですか?」 「自慢じゃないが」  恵はまっすぐ見上げていた視線を逸らし、紅い唇をほころばせる。黒河の意見に反論するでもなく、 「では、僕の勘も一つ」  と、涼しげな顔で言う。 「言ってみろ」 「あなたは、見かけほど怖い人じゃない」 「おまえの勘は、当たらない方だろう」 「当たる方ですよ」  含みがありそうでいて、実は裏には何もないのか。そのほとんど動かない表情からは、海千山千の黒河ですら推し量ることは難しい。この若さで大したものだ。  端から見て幸せであろうがなかろうが、本人が自分の生活に満足していると言っているのだから、もうそれでいいのではないか。それ以上他人が何かしてやろうなどというのは、大きなお世話なのではないか。  だが、割り切れない。納得がいかない。  それはおそらく、彼があまりにも多くの秘密を、その完成された仮面の下に隠しているように見えてしまうからだろう。  根拠はない。ただの勘だ。しかし、黒河の勘はよく当たる。  そうこうしているうちに、前方に緑の生垣で囲われた広い空き地が見えてきた。隔週水曜に、恵がボランティア活動をしているという公園はそこらしい。 「黒河さん、晩御飯はもうお済みですか?」  唐突に問われる。 「いや、まだだ」 「よかった。ささやかですがご馳走させてください」  意味を問いただす前に公園の入口を入ると、食欲をそそるいい香りが漂ってきた。

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