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第8話
「お待たせしました~」
ショートボブのよく似合う今風の整った顔の女の子が、黒河の前に恭しくおにぎりととん汁を置き、ニコッと笑いかけた。
「青年会会計の牧村美央です。よろしく、黒河さん」
「どうも」
女性は怯えさせないのが信条だ。挨拶代わりに軽く微笑を返すと、美央というその女の子はきゃっと口元に手を当て頬を染め、嬉しそうにくすくすと笑った。その反応は、俗世の普通の女の子と何等変わらない。
「どうぞ、あったかいうちに召し上がってください」
シンプルだが手のかかったメニュー。以前から外食が多かったので、こういった温かい手料理を口にする機会など滅多になかった。
「いただこう」
キラキラした4つの目が感想を求めて見つめてくるのがどうにも居心地が悪かったが、とりあえず湯気の立つとん汁に箸をつけてみる。具沢山でコクのある味わいはなかなかのものだ。こんなに美味いものが振舞われるのなら、炊き出しに並ぶのも癖になってしまいそうだった。
「美味い」
素直な感想を口にすると、二人はホッと笑顔を交わし合う。
「大変だな。隔週とは言えこれだけの規模の炊き出しを回すのは」
鍋の前に並ぶ人間の列は相当長くなっている。近隣のホームレスだけではなく、遠方からも情報を聞きつけて集まってきているのかもしれない。
「俺達教会員はお手伝い要員で、主催はNPOさんですから。この助っ人も恵さんの発案なんですけど、ホントにやってよかったって思いますよ」
「すごくやりがいあるんです。皆さんがおいしいって言ってくれると、私達まで嬉しくなっちゃって。恵さんのおかげです」
行列の傍らに立ち優しく声をかけながら、ときおり立ち止まっては彼らの話を聞いている恵の方を見る。疲れ果てた人々の訴えに頷くその瞳は真摯で、慈愛に溢れている。
「あいつは何やってる。就職相談か?」
「そっちは主にNPOさんの担当です。恵さんは悩みを聞いてあげたりとか、神様の話をしたりとかですね。この炊き出しの会がきっかけで、うちの教会に来てくれてる方も大勢いるんですよ」
恵のことを話すときの克幸の顔は、ひいきのスターのことでも語るように自慢げになる。
「信者獲得のための布教活動ってわけか」
「教会の利益にはならないんです。だって皆さん、無一文ですもん」
美央の言うことも確かに道理だ。
献金目当てではないとするなら、恵のしていることは純粋に魂の救済ということになる。利益にならなければ動かない人間ばかりを見てきた黒河には、理解の及ばない領域だ。
恵は列に並ぶ行き先を見失った連中の悩みを聞きながらも、厨房から指示を仰ぎにくる仲間に穏やかに答え、場を切り回している。話しかけるジャケットの色は白も紺もいて、彼が教会員のみならず部外者にまで信頼を勝ち得ていることが見て取れる。
「美味かった。ご馳走さん」
黒河は嬉しそうに頷く美央に空になった器を渡し、立ち上がった。
これ以上ここで観察していても、どうやら収穫はなさそうだ。恵はあの能面みたいな微笑を浮かべたまま、最後の一人の腹と心が満たされるまで、赤の他人のためのご立派な奉仕を続けるのだろう。
「一声かけて帰る。邪魔したな」
「今度よかったら、教会の方にも来てくださいね!」
克幸の屈託のない誘いを背で聞きながら、黒河は薄汚れた中年男に手まで握らせている恵に近付いていく。
薄黒くごつい手が恵の真っ白な細い指を撫で回しているのを見ると、胸が悪くなってくる。博愛主義だか神の愛の実践だか知らないが、何もここまでやらせなくてもいいだろう。
「おい」
声をかけると、恵はなんだか夢から覚めたような顔で振り向いた。うだうだと愚痴を垂れる男に優しくいたわりの言葉をかけ、そっと手を抜くと、黒河の方に速足で寄ってくる。変わらぬ読めない微笑の中に、控えめな嬉しさが見える気がするのは錯覚か。
「黒河さん、ディナーはいかがでしたか?」
「悪くなかった。腹もいっぱいになったし、今日は引き上げる」
「そうですか」
頷き、一瞬長い睫が伏せられてから、また迷ったように上げられた。黒河は思わず瞳を見開く。仮面のずれた不安げな顔が、そこに覗いていたからだ。
「あの……」
「恵君、ちょっといいかな」
ためらいがちに言いかけた言葉を遮ったのは、横手から近付いてきた紺のジャケットの男だ。
黒河ほどではないが上背があり、はっきりとした目鼻立ちの端正な顔をしている。同じ男性的な系統の美形でも、触れれば斬られそうな暗い雰囲気を持つ黒河とは異なり、太陽の下ですくすくと育ったような正統的なハンサムだ。
男は黒河を見るなり反射的にその瞳に警戒の色を浮かべ、わずかに眉をひそめる。うさんくさいものでも見るように。
そう、これが若い男としては普通の反応だろう。三原克幸始め、教会の青年団連中の方が少し変わっているのだ。
ここにきて初めてまともな感覚の人間に会った気がして、黒河は逆にホッとする。ただ、単に雄同士の本能的警戒感以上の負の感情が、男からまともに向けられているのは確かだった。
堅気の坊やにまともにガンをくれられて、黒河はつい苦笑してしまう。それがさらに相手の癇に障ったらしく、剣呑な気がさらに増す。
「ごめんね、話し中だった?」
と、恵に転じた瞳はしかし、苛立った気配を見事なまでに消し去り、胸糞悪いほどの甘ったるさを漂わせている。
ボランティアの仲良し仲間にしては行き過ぎた露骨な視線にも、当の恵の微笑はわずかにも揺るがない。列に並んだ小汚い老人に注ぐのと同じ博愛の眼差しで、あからさまにセクシャルなアプローチをしている男に対し、見事に一線を引いている。
「大丈夫ですよ。中野さん、こちらは僕の友人で黒河さん」
黒河の方を向き、
「NPOの代表の中野さんです」
と、律儀に紹介する。
決して友好的ではない挑戦的な笑顔で「はじめまして」と挨拶してくる相手に、頷く程度の会釈を返した。
「恵君にはいろいろと世話になってます。彼の協力なしでは、この活動もとてもやってこられなかったんですよ。うちの連中も、今やみんな彼のファンでね。もちろん、俺がその筆頭ですけど」
そう言って自慢げに微笑み、中野は見せ付けるように恵の肩に手をかける。こいつは『こっち側』だぞ、とでも言いたげに。
「それで、黒河さんは恵君のどういうご友人なんですか?」
おまえは違う集合の人間だろ、引っ込んでろよと言わんばかりの視線に、黒河はうんざりと溜息をつく。
「ストーカーだ」
からかうつもりで言ったのだが、声を立てて笑ったのは恵だけだった。慈善活動などを主催するド真面目な坊ちゃんは、ポカンと口を開け呆気に取られている。
「飯を食わせてもらえるって話だったから、ついてきただけだ。味はよかったぞ」
軽く片手を上げ背を向けた。「冗談ですよ」とおかしそうに言っている恵の声が、背に届いてきた。
中野が現れる前、一瞬だけ見せた恵の不安げな表情が、脳裏に焼き付いて離れない。開きかけた紅い唇、訴えようとしたその一言は、一体何だったのか。
腹は膨れ体は温まったが、胸の方はさらなる疑問に揺れ動いている。何かに囚われてしまうということは、おそらく決して満たされない飢餓感を呼び起こすものなのだ。
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