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第10話
古めかしい木の扉を押し開け中に入ると、見た顔が駆け寄ってきた。
「恵さん! 黒河さんも!」
「おはようございます」
克幸と美央だ。他にも炊き出しの夜見た顔が何人かいて、その心からの大歓迎に黒河は困り果ててしまう。彼らの根っからの善人オーラに晒されるのは、不快ではないがどうも居心地が悪い。
「黒河さん、僕は礼拝の前に祈祷会がありますので失礼しますね。あとは克幸君がご案内します」
「まかしといてください。黒河さん、どうぞ」
とんでもない場違いな所に足を踏み入れてしまったと、後悔してももう遅い。気が変わったから帰ると言い出したら、目の前でニコニコと満面の笑みを見せている好青年が一転泣き顔になりそうだ。
「それではまた後ほど」
そう言って恵は困惑顔の黒河を放って、礼拝堂とは逆の方へさっさと姿を消してしまった。
「恵さんの説教の日だから来てくれたんですか? 絶対一度は聴かれた方がいいですよ! わかりやすいし奥深くて、マジすごいですから」
そのへんの若者と変わらないくだけた口調で、克幸が誉めそやす。
差し出されるぶ厚い聖書と聖歌をわけもわからず受け取りながら、黒河は腹を決める。
居心地は、非常に悪い。だが説教の中に、藤代恵と言う人間の本質を知るヒントが隠されているかもしれないと思うと、やはりこのまま帰れない。
「あいつは、しょっちゅう教壇に立つのか」
「牧師先生が留守のとき、たまにですね。でもこういっちゃなんだけど、先生の説教と比べても遜色ないですよ。ここだけの話、恵さんが説教のときを狙ってくる人もいるくらいですから。単なるファンみたいな子もいますけど」
克幸の身内自慢は止まらない。本当に恵に心酔しているのだろう。
「恵さんみたいな人はきっと、内面的にも満ち足りてて、迷ったり悩んだりしないんだろうなぁ。ホント見習いたいですよね」
という弾んだ声の一言には同意しかね、黒川は内心首を傾げた。
周囲の誰もが、彼のことをそんなふうに見ているのだろうか。精一杯無理をして自分を律しているように見えるのは、黒河だけなのか。
軽く百人は入りそうな広い礼拝堂は、すでに満員になっていた。年齢も性別も雑多な人々が、一様に厳かな表情で席についている。
厳粛な雰囲気の会場を、不思議と心に響く静かな合唱曲が満たしている。CDを流しているようだが音響設備が整っているせいか、生演奏のようにリアルに聴こえる。どこの国のものだかわからない言葉で同じフレーズを繰り返すその合唱の、どこか哀切な調べが胸を打つ。
前の方へ行こうと誘う克幸を押し止め、空いていた最後尾の端に席を取った。
挨拶を交し合う漣のような声が、音楽と共に次第に小さくなり、礼拝堂教壇脇の横手の扉から恵を先頭に、いずれも60過ぎくらいの男女が3、4人入ってくる。
「今日の説教者と司会者、聖書朗読と祈祷の当番の人です」
克幸が小声で解説してくれた。
パイプオルガンの生伴奏と共に、粛々と礼拝が始まった。賛美歌と司会者の祈祷が終わり、いよいよ恵が教壇に上がる。
朝はコートを着ていたので気付かなかったが、今日は濃紺のスーツだ。スッと背筋を伸ばし教壇に立つその姿は堂々とし、信仰暦何十年というつわものの連中を前にしても、いささかも緊張していない。
注がれる視線の一つ一つに応えるように会堂全体を見渡してから、恵は通る声で語り始める。人間の罪深さと、大いなる神の赦しについて。
『わかりやすいし奥が深い』と克幸は言ったが、まさにそのとおりだ。余計な知識がないド素人の分だけ、黒河は冷静にその説教を聞くことができたが、難しい聖書のエピソードを簡易に噛み砕いて解説し、理解させ、心に訴えかけてくるテクニックはなかなかのものだ。
現に、明らかに恵を拝むためだけに来ていると思われる、教理にまったく興味のなさそうな女子高生の集団も、スマホをいじくりも居眠りもせずに、目をキラキラさせて恵の話に聞き入っている。
「主イエスは十字架にかかり、私達の罪を贖ってくださいました」
胸に響く澄んだ声が、神の言葉を語る。
「私達の罪は赦されているのです」
出来過ぎた台本を読んでいるのではない。おそらく、彼自身の心から溢れ出る言葉。
だが、この決定的な違和感はどうだ。
赦されている、と語りながら、本当は彼自身その赦しを実感していないのではないか。
根拠はない。ただの勘だ。だが、黒河の勘はよく当たる。
「お祈りしましょう」
説教を終え、両手を組み瞼を伏せる聖らかな神学生に、集中を解いた会堂中の全員がならう。
黒河だけは目を開けたまま、教壇上の彼をみつめる。ピエタのマリア像のごとく厳かに瞳を閉じ、赦したまえと神に祈る、その白い横顔を。
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