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第12話

 先を行く恵は教会堂の中ではなく、庭の裏手へと黒河を導いていく。そこはちょっとした空き地になっていて、大きな楡の木の下に置き忘れられたような木のベンチが一脚設置されていた。 「ここ、結構穴場なんです」  そう言って恵はベンチに座り、黒河にも隣に座るよう促す。その表情は、いつもの彼の読めない微笑に戻っている。 「大婦人会の皆さんとの語らいはいかがでしたか?」 「悪くなかった」  からかうような口調に眉を寄せ、肩をすくめ黒河は答える。 「本当?」  恵は意外そうに、知的な目を見開いた。 「俺にはばあさんはいないが、もしいたらあんな感じだろうな。貴重な経験をさせてもらった」 「皆さんすっかり信じてましたね、あなたの作り話」 「決め付けるな。俺はご老人は騙さない主義だ。あの話は80%実話だぞ」 「あなたが献金箱に1万円札を何枚も入れたのは、誰も見てなかったのかな」 「おまえ……なんで知ってる」 「え、本当にそんなに入れたんですか?」  恵の素で驚いた顔に、黒河はやられたと舌打ちする。 「細かいのは持たない主義でな」 「カッコイイですね」  そう言ってフワリと笑う恵の髪を、緩やかな風が流す。落ちた長めの前髪をかき上げる細い指とその笑顔が、やっと静めた胸をまたざわめかせ、黒河はさりげなく視線を逸らした。空き地を囲い群れて咲く名もない花々に視線を投げ、ぬるい沈黙に身を任せる。  静かだ。時折頭上の葉が風に揺れる音と、遥か遠くの鳥のさえずりだけが聞こえてくる。  一体俺は何をしているのだろう、と、黒河は自問する。  張り詰めた緊張感から、一瞬たりとも解き放たれない人生を送ってきた。裏社会での『仕事』はまるでスリリングなゲームのように面白くはあったが、それはいつ失っても諦めがつく刹那的な快楽だった。  ぎりぎりの場所で神経をすり減らし生きていたのが、今は脅かされることのない平和の中で、綺麗な瞳の連中に囲まれ食事をしたり、話したりしている。  こんなことをしていていいのか、と、どこか焦りめいた感覚に襲われるのは、過去をまだ引きずっているせいだ。  悪いわけがない。なぜならもう何も、自分を縛るものはない。すべてを失くし、空っぽになってしまったのだから。  だが、絶望的な空虚さを抱えながらも、今の状態もそれほど悪くないと思えるのはなぜだろう。 「あ……そうだ」  どこか遠くに思いを馳せる瞳で宙をみつめていた恵が、ふと思い出したように、かけていたショルダーバッグから何かを取り出した。 「これを黒河さんに。今日の記念です」  差し出されたのはCDだ。受け取り、荘厳な宗教画が写ったジャケットを眺める。タイトルは『ミサ曲集』となっている。 「礼拝の前に、会堂で流していたものです。僕もたまに部屋で聴いています。気持ちが落ち着いてくるので」  静かな会堂に満ちていた、厳かで神聖な調べ。どこか物悲しげなメロディに乗せられた合唱は、静かに、だが強く、何かを訴えているように感じられた。  繰り返されていた同じフレーズが、まだ耳の奥に残っている。 「キリエ、エレイソン」  ジャケットを裏返し、一番上にある曲目を読んだ。そう、何度も繰り返されていた言葉は、きっとそれだ。 「ギリシャ語で、『主よ、憐れみたまえ』」  恵の抑揚のない無感情な声が届いた。  思わず見返したその顔はガラス細工の人形のように無表情で、黒河は思わず息を詰める。  だが、ほんの一瞬だけ空洞になった瞳はすぐに色を取り戻し、唇にはいつもの謎めいた笑みが刻まれた。 「ところで、初めての礼拝のご感想はいかがでしたか?」  そう聞いてきた表情は内面を覗かせないいつもの恵のもので、黒河は秘かに落胆の息をつく。指先が届きそうに思っても、すぐにまたすり抜けていかれてしまう。 「なかなかうまいもんじゃないか」  黒河の答えに、恵が疑問符付きの顔で見上げてくる。 「説教だよ。人心を掴む話し方のコツを心得てる。適性があるな」 「そうでしょうか」  そう言って逸らされた瞳は複雑な色を宿し、少なくとも褒められて嬉しいといった顔ではなかった。 「自分ではそう思っていないことだって、人には話せますから」  冷め切った瞳を遠くに投げて、恵は聞こえないくらいの声で言い捨てた。投げやりな独り言めいたそのつぶやきが、周囲の空気を一瞬凍らせる。 「どういう意味だ」  問いただす。そこで素直にその胸の内を語ってくれたなら互いの距離も縮まっただろうに、 「別に、なんでもありません」  と、恵はいつもの微笑であっさりと流してしまう。  うっかり飲み込んでしまった大きな石が、胸の奥でひっかかっているような気持ち悪さに、黒河は眉をひそめた。  同時に、腹が立つ。彼がつけたくもない仮面をつけて、自分を偽って生きていることが無性に理不尽に感じられ、理屈抜きでむかついてきたのだ。 「おまえ、まだ用事があるのか」  黒河の唐突な問いに、恵は瞳を見開き首を傾げた。 「はい?」 「教会の奉仕は、今日はもう終わりか」 「あ、えぇ。特にもう何も。今日はこれで解散で……」 「じゃあ来い」  立ち上がり、腕を掴んだ。 「え……黒河さん?」  戸惑っているが抵抗はしない。引かれるままにおとなしくついてくる。 「あの、どこへ……」 「息抜きに連れてってやる」  振り向かず強引に告げると、恵はそれきり疑問を投げてこなくなった。代わりに、掴んだ腕から緊張が解け、力が抜けるのがわかる。  どんな顔をしているのか見てみたくなったが、やめておいた。その顔がもしも笑っていたら、また胸が奇妙な感覚にざわめいてしまいそうな、確実な予感がしたからだ。

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