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第13話
教会から車を飛ばし20分の隣町にあるその動物園は、日曜ということもあって人でごった返していた。特に2ヶ月前に生まれたばかりの黒豹の子供・ポロンは大人気で、1日数時間公開されるだけのその愛らしい姿を一目見ようと、檻の前には相当な人だかりができていた。
のどかな親子連れが圧倒的多数を占める中で、暗い色のコートを着た男二人の組み合わせはかなり目立つ。しかも2人揃って、ただ立っているだけで注目を浴びてしまう美しい容姿だ。
あからさまではないが、さりげなさを装い集まってくる視線に居心地の悪さを感じ、黒河は檻から少し離れた木の陰に立っていた。
恵は檻にしがみつく子供達の背後から、おもちゃのボールにじゃれつくポロンをみつめている。小さく歓声を上げ、無邪気に檻に張り付いてからもう15分だ。1秒ごとに表情が変わるあどけない動物が、よほど気に入ったらしい。
黒河の位置からはちょうど、恵の横顔が見えている。豹の子のちょっとした仕草に目を見開いたり、群衆と一緒に笑ったりしている。その表情には、いつもの張り詰め取り繕った様子はない。完全にリラックスモードだ。
そしてそれは、彼をみつめている黒河にも伝染したようだ。
好天ののどかな昼下がり。動物園などというとんでもなく場違いな所に来て、家族連れや動物をぼんやりと眺めている。あり得ない状況だ。
ついこの間までは常に外部からの攻撃に備え神経を逆立てていたのが、今はどうだ。完全に弛緩している。黒豹の子供を見ながら表情を崩している恵を、見飽きずにただみつめている。
平和で、ゆるやかに流れる時間。その中で胸を満たす、穏やかな感情。
何もする気が起こらずしたいこともなく、亡霊のように過ごしていた自分が、今、恵を見ていたいと思う。無理をしていない自然体の彼を見るのは、なかなか悪くない気分だ。
風に湿り気が混じり始めた。と、思う間もなく、上空から降ってきた霧雨が周囲の景色を一転曇らせる。あれほど晴れ上がっていたのが嘘のように、あたり一帯がグレーに変わっていく。
急なにわか雨に檻に群がっていた人々は、嘆きの声を上げながらパラパラと散っていく。近くにある休憩所に避難するのだろう。公開時間もちょうど終了の頃合だったのか、飼育員が黒豹ベビーを引っ込めにきたところだった。
空になった檻の前には、恵だけが残される。右手のひらを天に向け不思議そうに雨の感触を確かめた恵は、ふと視線を左右に流した。黒河を探しているのだろう。木の下にその姿をみつけると、不安げだった顔をパッと輝かせた。
いつもの取り澄ましたものとは別人のようなその表情に、黒河の乾いた胸は波立つ。
恵は駆け寄ってくると、未だ興奮冷めやらぬ目で黒河を見上げる。
「とても可愛かったですよ。あなたも見ればよかったのに」
「ここから見えた」
見ていたのは愛らしいポロンではなく、ほとんど恵の横顔だったのだが。
「どうだ。息抜きになったか?」
「はい! とても」
飾らない、素のままの笑顔で恵は答えた。さっきまでよく似合って見えた地味なスーツ姿が、なんだか急に大人びて見えてくる。
「たまにはこうしてリフレッシュしろ。おまえのスケジュールは詰まりすぎだ。余裕がないヤツは人間的にも成長しない。遊びも大事だ」
他人に説教できる柄かと自分でも呆れながらも、本当はただ彼の笑顔を見たいがために連れ出したことを知られたくなくて、黒河はわざと表情を険しくして言った。
「僕は、息抜きの仕方がわからないんです。よかったらこれからも、黒河さんが教えてください」
今のは冗談か、本気か。
おそらく本気だ。それだけにたちが悪い。
「残念だが、俺も息抜きは下手でな。余計な時間があると持て余す。貧乏性ってやつか」
「それじゃ僕達、似た者同士ですね」
そう言って恵は笑い、空になった檻の方へもう一度視線を流した。
あれほどいた人間が、今は見事に1人もいなくなっている。霧雨が景色を煙らせ、見る者のない無人の檻を寂しげに見せていた。
「あのときと、同じですね……」
思わず見返した白い横顔は、無表情に戻ってしまっている。
「あなたと初めて会ったときも、こんな雨でした」
「……っ、覚えてたのか」
驚いた。再会してからこの方、まったくそんな素振りがなかったので、忘れられなかったのは自分の方だけだろうと思っていたのだ。
だが恵は凪いだ湖のような静かな瞳を黒河に上げると、はっきりと告げた。
「絶対に、忘れない」
その迷いのない断言に、黒河は思わず恵を見返す。引き込まれそうな深い瞳の奥に隠された、真意を見届けたかったのだ。
しかし瞬き一つでその瞳の色は変わり、深刻さは消え、どこかいたずらっぽい表情が取って代わった。
「提案があるんですけど」
「なんだ」
「僕が秘密を一つ話したら、黒河さんも一つ打ち明けてくれる。そういうのはどうですか?」
「断ると言ったら?」
「諦めます。僕が勝手に話します」
「話したければ話せ」
恵は少し寂しげに微笑むと、再び黒河から視線をはずし遠くへ投げた。
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