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第14話

「あの日……あなたを見たとき、願いが叶って天使が迎えに来てくれたのかと思った」 『死神』と言われたことならあるが、『天使』はない。何の冗談だと見返した恵の横顔は、しかし真剣だった。 「この世の人じゃないみたいに美しくて、ああ、この人はきっと神の使いなんだなって思ったんです。灰色の風景の中で、あなただけに色がついて見えました」  それは、黒河も同じだった。  グレーの街の中浮き上がる、侵しがたい清楚な姿。危うく儚げな存在感が、指先で触れただけで壊れそうな繊細な美しさをいや増していた。  目を閉じれば、今でもありありと思い出せる情景だ。 「僕を救うために現れたのかなって、そう思ったのに、あなたは消えていなくなってしまった。でも僕は、待ってたんです。あなたがもう一度来てくれるようにと、いつも……いつも祈ってました」 「いろいろあって来られなかった。おまえが待ってるとは、思ってもみなかったしな」  何を言い訳めいたことを口にしているのだろう。だが、言わずにはいられなかった。もしも恵が待っていると知っていれば、獄から出されたその足で黒河は飛んで来ただろう。  黒河の言葉に、恵は紅い唇をほころばせる。その微笑は嬉しそうでありながら、どこかまだ寂しさを残していた。 「だから、アパートの部屋の前であなたを見たときは、ああ、やっと来てくれたんだって、どこかでホッとしたんです。嬉しかった」 「俺は神の使いでも何でもない。おまえを観察しに来ただけだ。それでもか」  恵は深く頷く。 「それでも」  ゆるやかな風が頭上の葉を揺らし、雨粒で一瞬その細い姿を覆う。濡れないように引き寄せたいという衝動が急に湧き上がって、黒河をわずかに狼狽させる。  恵は冷たそうに目を細め、濡れた頬を細い指でそっと拭った。 「僕は、今の生活に満足していると、あなたに言いました。それは嘘ではありません。神の恵みを感謝しつつ歩む日々は平安に満ちていて、迷いも悩みも昇華してくれます。でも……」  言いづらそうに言葉を切ってから、幾分早口に続ける。 「そんな中にあって僕は……本当は、懺悔させてくれる人を求めていたのかもしれない」  語る口調は静かだが、奥に潜んだ痛みが突き刺さってくる。隠されていた彼の心の深遠がそっと扉を開き、初めて黒河に本当の声を聞かせているのだ。 「あなたならきっと、閉め切っていた僕の心の窓を開け放ってくれる。一生開けるつもりのない窓だったけれど、外の景色はとても綺麗で、入ってくる風は気持ちがいい。……黒河さん」  澄んだ綺麗な瞳が向けられる。グレーの背景の中、彼だけに鮮やかな色がつく。あの日のように。 「あなたが、来てくれてよかった」  その純粋な眼差しを受け止め切れず、黒河は微笑みかける恵から視線を逸らした。  自分は何もできない。おそらくは、未だに見えない鎖に縛られ自由になれない彼を、ただ見ていることしかできないのだ。  思い通りにならないことなど、今までの人生ほとんどなかった。それが今、どうしようもなく手詰まりになっている。この目の前の青年を笑わせてやるという、ただそれだけのことが、これほど難しいとは思わなかった。  そして何よりも、決して忘れてはならないことがあった。  神の使いとは、うかつに笑えないほど不謹慎な言い草だ。黒河が父親の死に関わりがあると知れば、恵とて決してそんなことは言わないに違いない。 「勝手に、僕の秘密をお話しさせてもらいました」  少しだけ照れたように言って、恵は視線を遠くに戻す。  どうやら通り雨だったらしい。雨脚は急速に弱まり、空は再び明るくなり始めている。まるで恵が『秘密』を語る間だけ、天が用意した舞台設定だったかのようだ。 「社会心理学を勉強してたのは嘘だ」 「えっ?」  いきなり沈黙を破った黒河を、恵が素で驚き見上げてきた。 「俺の秘密だ。一つ明かすぞ」  軽口めかして告げると、恵は本当に嬉しそうに笑って、 「嘘だと思った」  と、言った。  彼の偽らない笑顔を見ると、胸が勝手に騒ぎ出す。言葉で言い表すことが難しい、黒河にとっては初めての感覚だった。  そうして笑っている顔を見るのは気分がいい。だが仮面の彼にはイライラさせられる。不快になる。 「どうしておまえは無理をしている」  もう一歩踏み込ませてもらえないもどかしさは、相手への問いとなってこぼれ出た。 「なぜ自分から窓を閉め切ってるんだ。俺にはおまえが自分を、無理矢理聖人の型に押し込めているように見えるぞ」  恵の微笑が、いつもの読めないものに変わった。どこか虚無的な色を滲ませる瞳が、力なく黒河を見返す。 「僕の罪は、赦されないから」  小さな声で、早口に告げられた一言。瞳を見開いた黒河から、視線はすぐに逸らされる。 「だから、少しでも償いたいと、そう思っているだけです」  謎めいた言葉が風に吹き流されていく。  おそらくこれ以上何を聞いても、恵は答えてはくれないだろう。  黒河は引っかかったままの苦い思いを、波立つ胸に無理矢理しまい込んだ。

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