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第16話
恵を監視するようになってから黒河は本居を離れ、彼のアパートから徒歩20分の高級賃貸マンションに仮暮らしをしている。数日で終わるはずだった滞在が長引くにつれて必要なものも出てきたため、近くはない自宅に一時戻らざるを得なくなった。
溜まっていたつまらない用事をいくつか済ませるのに丸2日を要し、戻ってくるとなんとなく肩の力が抜けた。馴染みのない仮住まいの方が、すでに自分の根城のように感じられるのが不思議だった。
ここ数週間、ほとんど毎日朝から付きまとっていた黒河が現れず、恵は心配しているだろうか。
そう思ってから、自分の馬鹿さ加減に眉を寄せてしまう。
おそらく、何とも思わないに違いない。黒河がいてもいなくても、恵は清く正しい生活を一人続けているのだろう。
――顔を見ないと落ち着かないのは、むしろ自分の方ではないのか。
その認めたくない本音は胸の底に押し込め、強引に気付かないふりをした。
たまには夕食でもおごるつもりで学校の前で出待ちをするが、当人はなかなか現れない。見覚えのある友人に聞くと、体調が悪く早退したとの話だった。
看病なんて柄じゃない。それでも気にかかり、覗きにいかないではいられない。
何を用意したらいいのかもわからず、黒河は手ぶらで美園荘へと向かった。
恵が来てくれと電話一本すれば、喜んで駆け付ける人間はごまんといるだろう。だが、おそらく彼はそうしない。たとえ高熱を出し唸っていても誰にも言わず、あの隙間風が吹き込みそうなアパートで一人震えている方を選ぶだろう。
何の役にも立たないが、冷たい風からガードしてやるくらいのことは、黒河にもできるかもしれなかった。
住宅街を抜け整備されていない枯れ草だらけの空き地を縫っていくと、美園荘の老朽化した建物が幽霊屋敷のごとく佇んでいるのが見える。
その前に立った長身のシルエットを認め、黒河は眉を寄せた。
NPOの中野だ。
中野はアパートでたった一つ明りのついた、恵の部屋をじっと見つめている。夜9時だ。尋常な時間ではない。
さらに、普通でないのは時間だけではなく、その異様な目の色だ。追い詰められた獣じみたギラギラした目が、ほとんど睨みつけるように部屋の明りに向けられているのだ。
「おい」
中野の足が一歩部屋の方に踏み出されると同時に、黒河が声をかけた。相手は飛び上がらんばかりに驚き、身構える。おもむろに近付いていく黒河を見て、中野はばつ悪そうに眉をひそめた。
「あいつに用なら聞いておいてやる」
「こんな時間に恵君の部屋に来るなんて、ホントにストーカーじゃないのか、あんた?」
「おまえの方もあいつに呼ばれて来た、というわけでもなさそうだが」
中野は露骨に舌打ちした。が、すぐに醜い形に唇を歪め勝ち誇ったように笑う。
「黒河さん、あんた何者? 見るからにカタギじゃない感じだよな」
返事をするのも馬鹿馬鹿しくて答えないでいると、小僧は増長し黒河の方に一歩踏み出した。
「恵君がめんどう見てるってことは、前科者か? 今までどんな犯罪やってきたんだ? 暴行障害? 薬? そんな社会のクズみたいなヤツ、恵君が本気で相手にするわけないだろ? 彼のことだからあんたに同情して、救いたいって思ってるだけなんだよ」
憐れまれるべきは目の前のおまえの方だ、と言ってやりたかったが、うざいガキをまともに相手にする時間がもったいない。
「失せろ」
と、筋者でも震え上がる睨みを効かせ短く告げると、さすがの生意気小僧もビクリと身を引き、再度の舌打ちと共に踵を返す。
「いい気になるなよ。恵は俺のもんだ」
熱病患者じみた目で黒河を睨み付け、ブツブツ悪態をつき退場していく。
後ろ姿を見送りながら、ひどく不快な気分に包まれた。
あれは、犯罪者の目だ。完全におかしくなっている。恵にも注意するように言っておいた方がいいかもしれない。
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