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第17話
軽くノックをしただけで崩れそうな扉を叩く。明りはついているのに返事がない。
「おい、寝てるのか?」
声をかけてみた。
『黒河さん……?』
弱々しい、消え入りそうな声が返ってくる。
「そうだ」
ロックをはずす音がし、ドアが細めに開けられた。隙間からのぞいた恵の顔を見て、黒河は思わず目を見開く。
ただでさえ色白な顔は今や真っ青で、血の気のない唇が微かに震えている。伏せられていた長い睫毛が上げられ、黒河を見た瞳は明らかに怯えていた。
「どうした。大丈夫か?」
動揺を抑え強いて冷静な声で尋ねると、無表情が崩れ、美しい顔が泣きそうに歪んだ。
「黒河さん……?」
確認するように、色を失った唇が問う。
「そうだ」
繰り返し答えてやると、やっと安堵がその顔を覆う。恵は震える指を伸ばして黒河のコートを控えめにそっと掴むと、部屋に引き入れた。黒河が後ろ手にドアを閉めてやる。
「黒河さん……黒河さん……」
すがるように名前を繰り返す恵。コートの胸の辺りをギュッと握った手は離れようとしない。細い肩が目の前で震えている。今にも泣きそうな顔は、いつもの大人びて沈着冷静な彼からは想像もつかず、頼りない。
思わず手が伸びていた。思い切り抱き締めたいという唐突に湧き上がった衝動をぎりぎりの自制で堪え、そっと背を抱いてやると、恵の細い体がわずかに緊張するのを感じた。
だが、抵抗はしない。
そのままゆっくりと撫でてやっていると、強張った感触が次第に抜けてくる。
「昨日から……来てくれなかったから……」
顔を伏せられた肩口から、細い声が届く。
「悪かった」
「心細かった……」
「何かあったのか」
「中野さんが……」
話すことに戸惑いを感じているのか、恵は言葉を詰らせた。
「とにかく、まずは落ち着け」
まだ震えが止まらない肩を抱くようにして、部屋の中へと連れていった。
最低限度のキッチンと色褪せた畳の6畳一間、それが恵の部屋だった。家具はパイプベッドとデスクだけ。きちんと片付き清潔なところは彼らしいが、生活感はまるでない。20代の独身男の部屋とは思えない整然とした空間は、主のプロフィールを想像できない無味乾燥な印象だ。
広いとは到底言えない室内には、しめやかで厳かな調べが流れていた。例の、ミサ曲のCDがかかっている。『Kyrie Eleison』だ。
『聴くと気持ちが落ち着く』と恵は言っていたが、そうだろうか。その調べを聴くたびに、黒河は恵を思い出してしまう。
主よ憐れみたまえ、と異国の言葉で繰り返し歌う合唱が、恵の無感情な横顔と重なるのだ。
本当は、彼自身が訴えているのではないのか。『憐れみたまえ』と。
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