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第18話

 強張った体をベッドに座らせると、恵はホッと息をついた。 「すみません。取り乱してしまって……」  そう言った声は、いつもの冷静な彼に戻っている。 「何があった。中野に何かされたのか?」  事と次第によっては再起不能にしてやる――そんな忘れていた凶暴な感情がふいに湧き起こり、黒河は我ながら当惑する。  恵は黒河の微細な変化には気付かないようで、ゆるゆると首を横に振った。 「別に……何も。ただ、1週間ぐらい前から工場や学校の帰りに中野さんに会うようになって。最初は偶然かと思ってたんですけど、どうやら僕が出てくるのを、待っていたみたいで……」  内心で舌打ちする。ストーカー野郎は、やはりあいつの方ではないか。 「今日は体調が悪くて早退したんですけど、中野さんがわざわざ訪ねて来て……。居留守を使ったのに、夜になって窓から外を見たら、まだいて……」 「あの野郎……」  思わず悪態が出た。 「すみません、黒河さんに心配をかけるつもりはなかったんです。きっと僕が、過剰に感じているだけですから」  いや、きっとそれだけではないのだろう。これほどまでに怯える理由が、ただなんとなくつきまとわれているように思えるだけだとは、納得がいかない。第一恵の性格からして何の根拠もなく、他人の悪意を疑ったりはしないはずだ。現に膝の上でギュッと握られた拳は、まだ小刻みに震えている。  黒河がその上からそっと自分の手を置くと、不安げな顔が上げられた。 「他にもあるんだろう。言ってみろ」  黒河を見上げる瞳が物言いたげに震えた。その目は『言えない』と訴えている。 「わかった。今日は、俺から秘密を明かしてやる。おまえと初めて会ったときのことは、俺もずっと覚えてた。忘れられなかったんだ」  不安に陰っていた目が驚きに見開かれる。 「おまえの親父に借りがあったからだけじゃない。おまえが今どうしているのか、それが気になったからこうして現れた」 「僕のことが、気になった……?」 「ああ。あれからおまえがどうしているのか、親父の代わりに見届けるのが俺の務めだと思ってな」  嘘だ。理由はきっと、それだけではない。  だが、じゃあ何なんだと聞かれても、黒河にも明確には説明できないのだ。 「とにかく、おまえと再会したおかげで、俺も退屈しない。謎が多すぎて面白くてしょうがない。おまえが全部秘密を明かすまでは、ずっと観察していたい。そう思ってる」 「本当……?」 「本当だ」  本当だ。ずっと、見ていたい。  取り繕った嘘の仮面ではなく、笑った顔も悲しい顔も、怯えた顔もすべて、本物の彼を見ていたい。  ――これからも、ずっと。  恵は深く息を吐くと、一瞬瞼を伏せた。拳の震えはいつのまにか引いている。再び黒河を見上げてきた瞳にはもう不安はなく、初めて見る深い信頼が覗いていた。  重ねた手をそっと握ってやると、長い睫毛が何度か瞬かれ慎ましく伏せられた。 「水曜日の炊き出しボランティアは期間限定で、あと一回で終わりなんです。NPOの方々とのお付き合いも、それでとりあえず終了ということになります」  聖なる歌が静かに流れる部屋に、語り出す澄んだ声が響く。 「この前の水曜、炊き出しが終わった後、中野さんに付き合ってほしいと言われました。その……つまり、特別な関係になってほしいって……」  恵は恥じ入るような小声で言ったきり押し黙った。 「それで?」  と促がすと、視線を膝に落としたまま話しづらそうに続ける。 「僕が断ると、彼は別人みたいに激昂しました。そんなはずないって。僕だって彼と同じ気持ちだったに違いないのに、どうして拒むんだと言って……」 「何かされたのか」  聞きながら、我を忘れ頭に血が上るのを感じた。この一点の汚れもない白い肌に無作法なストーカーが邪な指で触れたかもしれないと思うだけで、冷静さを失う。常に理性を失くさない黒河にしては、まったくらしくないことだった。  その表からは窺わせない黒河の変化には気付かない様子で、恵はあわてて首を振る。 「ちょうど、NPOの人達が彼を呼びに来たから。でもその後携帯に電話がきて、絶対に諦めないって。出ないでいると、メールが何通も来ました。今は、着信拒否にしてあります」  どうやら本格的に異常だ。  中野のように表向きは慈善事業などやっている人格者を装った偽善者というのは、もっともたちが悪い。正体がとんでもない異常性格者でも周囲の人間は信じず、何か起こったときには『彼がそんなことをするわけがない』などと、無責任に証言するのだ。 「ふざけやがって……」  思わず吐き捨てた黒河の顔をハッと見上げ、恵は首を左右に振った。 「いいんです、黒河さん」 「何がいいんだ」 「きっと、僕のせいなんです。中野さんが悪いんじゃない。だから」  意味不明のことを口走り、恵は唐突に口を噤み俯く。 「何がどうして、おまえのせいになるんだ。俺にもわかるようにちゃんと話せ」  イラついて、つい語調がきつくなってしまった。恵の細い肩がビクリと震える。  気まずい沈黙が狭い部屋を満たす。黒河は嘆息し、重ねたままだった恵の手を優しくポンポンと叩いた。 「馬鹿、怒ってるんじゃない。具体的に話してほしいと言ってるだけだ。わかるな?」  わずかに顎が引かれる。頷いたのだろうが、口は閉ざされたままだ。俯いたままの横顔は強張り、伏せた瞼は震えている。 「おまえ……しばらく、俺のところに来るか」  自分でも意識せず、ごく自然にそう口にしていた。見開かれた瞳は微かに驚いている。  澄んだ目にまともにみつめられ、なんだかとんでもないことを言ってしまったように感じ、黒河の方から気まずげに視線を逸らした。  一人で置いておくのが心配だからといって、自宅に連れ帰るほどの義理があるのか。  いや、そうではない。認めたくはないが、黒河はおそらく純粋に、ただ恵を連れて帰りたいのだ。心配だからというだけではない。  しかしそれでは、中野と同じではないか。  重なっていたぬくもりが離れた。手を引き抜かれたのだとわかり、黒河の胸は重い痛みに疼いた。 「大丈夫です」  しっかりしたいつもの恵の声が聞こえ、黒河は視線を戻す。仮面を付け直した恵が微笑んでいる。不安はうまく心の奥に隠し込んだようだ。 「心配かけてすみません。でも、もう少し様子を見てみます。相手にしなければ、彼もそのうち飽きるかもしれないし、黒河さんに迷惑はかけられませんので」  迷惑ではない――そう言いたかったが、もしかしたら婉曲に断られたのかもしれないと思い直す。  どんな高級な女だろうが男だろうが、夜の相手にと欲したら眼差し一つで頷かせ強引に連れ帰っていた黒河が、今相手の気持ちを推し量り、指一本触れるのも躊躇している。  情けない。我ながら呆れてしまう。 「携帯を貸せ」  自分に対する不可解なイライラをごまかすように、黒河は言った。恵は一瞬キョトンとしたが、言われるままにジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、黒河に渡す。黒河はそれに手早く、自分の番号とアドレスを登録した。 「何かあったらすぐに連絡しろ」  いつでも、どこでも飛んでいってやる――柄にもなく言いそうになるのをギリギリで堪える。小さな銀のクロスのストラップがついたガラケーを返すと、不思議そうな顔のまま恵は手を伸ばし、それを受け取った。 「かければ、黒河さんが出てくれるんですか?」  当然のことを、恵は聞いた。信じられないとでも言いたげな顔で。 「ああ」 「顔を見せてくれなかった日でも、ここにかければ、あなたと繋がりますか?」  頷いてやると、ずれた仮面の下から素直な微笑が覗いた。 「嬉しいな……お守りにします」  両手で大事そうに持った携帯を胸に引き寄せ、そっとつぶやく。どう答えていいのかわからず、黒河は聞こえなかったふりをする。  目を逸らしても、はにかんだ微笑の横顔が残像として記憶に残る。少しずつ、本当の藤代恵の表情の断片が胸に溜まっていく。いっぱいになったそれがついに溢れ出すとき、自分はどうなってしまうのか。  想像もつかない未知の危機感を逃すように、黒河は秘かに息を吐いた。  憐れみたまえ、と繰り返し歌っていた音楽は、いつのまにかフェイドアウトしていた。

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