22 / 32

第22話

 張り詰めた沈黙を破って届いてきたのは、ひどく静かな一言だった。 「知ってました」  思わず息が止まる。 「知っていた、というより、そういうことではないかと想像はしてました。父の知人はほとんどが教会関係者です。あなたはそうは見えなかったし、援助を申し出るほどの人にも全然心当たりがなかった。加害者側の人なのかも、と自然に思いました。でも、別にそれは、僕にとってはどうでもいいことだった」  語る恵の声は平坦で動じていない。冷めているとすら感じられる響きに、黒河はむしろ違和感をかきたてられる。 「どうでもいい? 俺はおまえの父親を殺した関係者なんだぞ?」 「何も、感じなかったんです」  まったく感情のこもらない一言に、黒河は目を見開く。 「18のときに家を出てから、父とは話もしていませんでした。それまでも、彼は僕にとって恐怖の対象であれこそすれ、親子の情愛的なものを感じたことは一度もありません。外に対しては尊敬される完璧な牧師、でも本当の顔は知られていない。酒が入ると些細なことで激昂して、僕と母を殴りつける姿は誰にも見せないですから。母が亡くなってからは、その暴力は僕一人に向けられた」  黒河は言葉を失い、恵の告白にただ耳を傾ける。 「だから父が死んだと聞かされたとき、僕は何も感じませんでした。悲しむどころか、ホッとしたんです。この町に逃げてきてからも、いつか父が追ってくるような錯覚に囚われて、ビクついてましたから」 『自由になって、いいんですよね』  雨の中、灰色に煙る風景。そうつぶやいた青年の空虚な瞳が脳裏に蘇る。  成長した彼が問う。あのときと同じ、能面めいた表情のない顔で。 「ひどいですか?」  黒河は即座に首を振る。 「そんな暴力親父なら、いなくなってよかったと思うのは当然だ。おまえは悪くない。だが、それと俺の償いは別だ。たとえどんなろくでもない親父だろうが、おまえから肉親を奪ったことに対して俺は詫びをしなきゃならない」  表情のない顔が強張りさらに冷たさを増した気がして、黒川は戸惑う。 「黒河さんは、償いのためだけに僕に近付いたんだ」 「っ……」  突き放すような冷ややかな一言に、黒河は言葉を失い立ち尽くす。 「いろいろ心配してくれたのも、毎日迎えに来てくれたのも、全部償いのため。そうなんですね」  そうだ。最初はそのはずだった。だが、今は違う。  では何なのか。何のためにそばにいるのか。なぜ守りたいと思うのか。  そう聞かれたら、答えられない。黒河にもわからない。はっきりと、言葉にできる自信がないのだ。 「僕がさっき逃げ出した理由は、黒河さんの素性を知ってショックを受けたから。そう思ってますか?」  聞いたこともない冷え切った声が、わずかに責めるような気配を帯びる。 「それ以外に何がある」  ためらいを隠し、返した一言に、目の前の完璧な仮面が突然崩れた。泣きそうになるのを必死で堪えるようなその顔に、黒河は混乱し絶句するしかない。 「聞きたいことがあれば、何でも聞けと」 「ああ、そう言った」 「それじゃ、教えてほしい。あの人は誰で、あなたの何?」  あまりにも予想外の質問に耳を疑った。思わず見返した相手の瞳は、隠せない不安で揺らいでいる。  その目を見た瞬間にわかった。答えの出せなかった感情の正体が見えてきた。わかってしまえばそれはあまりにも単純で、呆れるほど純粋な理由に他ならなかった。  30年以上生きてきて初めて覚える、笑ってしまいそうなほど綺麗な感情を自覚し茫然としている黒河に、恵は重ねて訴えかける。 「綺麗な人ですね。あなたとすごく親密なのは見てればわかった。僕とは……」  最大の秘密を吐き出すことに痛みを感じながら、それでも吐露せずにはいられないといった口調で、恵は続ける。  黒河は首を振りそれを遮る。 「違う」 「僕とは全然逆のタイプで、明るくて楽しそうな人だった。ああいう人が好きですか? ああいう人がいるなら、どうして僕のそばにいてくれるんですか? どうして……」 「違うと言ってるだろう!」  不安に支配され悲しい言葉が止まらない相手を、気付けば引き寄せ抱き締めていた。黒河らしくない、衝動的な行動だった。  瞬間恵はビクリと肩を震わせ身じろいだが、抵抗せずそのまま固まる。腕の中おとなしくしているそのぬくもりを実感し、黒河は自分の中にひそんでいた想いを再確認する。  きっと、欲しかったのはこれだ。この距離なのだ。 「あいつは昔からの友人で、ただの仕事仲間だ。それ以上の特別な感情は持ってない。信じろ」  恋人に拗ねられた男が、浮気はしていませんと言い訳するような陳腐さも、今はまったく笑えない。それよりも、腕の中の体が少しだけ震えているのが気になってしょうがない。どうやったら止めてやれるのかわからなくて苦しくなる。響き合う鼓動は重なり合って、もうどちらのものか区別がつかない。  小暮が今の黒河を見たら、それこそ大笑いするだろう。自分だって笑いたくなる。  もう笑うしかない。荒野のごとき乾いた内面に、いつのまにか汚れない白百合のような想いが育っていたなどと、悪い冗談としか思えない。  だが一度認めてしまえば、それは甘やかな心地よさで全身を包む、尊いものに違いなかった。  恵の体からは、清潔感の中に微かな甘さのある花の香りがする。細く癖のない黒髪、力いっぱい抱き締めれば折れそうな体、そのすべてをもっと感じたくて、黒河は背に回した腕に力を込める。うまい言葉が思いつかない分、ぬくもりで気持ちを伝えたかった。  だが、いくらしっかり抱き締めても、恵の震えは止まらない。  嫌なのか。怖いのか。それとも、寒いだけなのか。  理由がわからないのがもどかしくて、肩口にしっかり伏せられていた顔を、顎に指をかけ上げさせる。  ほんのりと紅く染まった白磁の頬。揺れる瞳に見えるのは戸惑いと恥じらい、そしてなぜか、深い悲しみだった。  紅い唇が少しだけ開かれるが、言葉は出てこない。  顎にかけた指を伸ばしてそこに触れる。頼りない肩が震えた。 「駄目……」  泣きそうな、か細い声が漏れた。  それでも止まらない衝動。どうしても今すぐ、その紅の花びらを奪いたい。  構わず唇を寄せていくと、両手が思いがけない力で胸を押し返してきた。 「駄目です……っ」  恵はゆるゆると首を振りながら、黒河から数歩下がる。怯えても怒ってもいない。その瞳は、ただひたすら悲しみに満ちている。  離れてしまった距離を、黒河は縮めることができない。無理に求めても彼を追い詰め苦しめてしまうことが、その目を見てわかったからだ。 「どうしてだ」  熱の去らない切羽詰った声が、自分のものではないような気がした。  聞くまでもなかった。彼は神の道を正しく歩む者、その教えに背くわけにはいかない。  だが、恵の口から漏れた一言は、予測していた答えとは違っていた。 「ごめんなさい、僕が……僕が悪いんです……」  中野の件を聞いたときも、確か彼はそう言った。自分のせいなのだ、と。  どういうことだと黒河が問う前に、恵は首を振りながらさらに数歩後ずさる。 「もう、これ以上黒河さんと、一緒にいちゃいけないんだ……最初から、わかってたのに……っ」  震える唇が、彼自身に言い聞かせるように虚ろにつぶやく。  開いていく距離を、黒河は詰められない。悲痛に満ちた瞳が、近付かないでほしいと訴えているのだ。 「もう、会いに来ないでください。どうか、これで最後に……」 「待て……!」  翻った細い背中を追おうとするが、 「ついてこないで!」  と、振り向く強い拒否の目に、足を止められた。 「ごめんなさい……!」  虚ろな謝罪と共に、恵は暗くなった街へと駆け出す。  黒河はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく後ろ姿を見つめるしかなかった。手のひらに残った淡いぬくもりを、せめて逃さないようしっかりと握り締めながら。

ともだちにシェアしよう!