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第23話
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決まった恋人などという厄介なものは作ったことがない。いつ何があってもおかしくない危険と隣り合わせの世界では、守りたい者を持ってしまうと命取りになることもあったからだ。
いや、それ以前に、黒河自身の中にそういった感情が欠落していたと言っていい。
欲望は人並みにあった。言い寄ってくる人間ならいくらでもいた。その中から後腐れなさそうなのを男女を問わず見繕って、欲望の処理を目的に短期間の関係を持った。平和な絵空事の世界の甘ったるい感情は黒河には必要なかったし、無縁だと思っていた。
それが今、その不可解で曖昧な感情に振り回されている。
一方的に拒まれた夜以来、恵は黒河を無視し続けていた。学校や工場の前でいつもどおり待っていても、視線を逸らしたままいないものとして振る舞う。声をかけても、振り向きもしない。
普段どおりの涼やかな美貌に慈愛の微笑を浮かべ、周囲の人間と穏やかに語らっている恵。
だが、今はどこかが違っていた。それは黒河だけに見抜けるわずかな変化だったが、決して見逃すことのできない決定的な違いだった。
崩れない仮面をしっかりと取り繕いながら、恵は何かに耐えている。他でもない黒河の存在が、危うさの中で保たれていた彼の心の均衡を崩し、混乱させているのだ。
これ以上恵を悩ませたくないなら、見切りをつけて彼の元から離れるのが最良だった。黒河が消えれば恵はまた、それなりに満たされた平安な日々に戻れるのだろう。神を裏切ることも、自分を責めることもない、表面だけは穏やかな日々に。
それがわかっていながら、やはり離れたくない。
なぜなら、恵はまだ自由になっていない。まだすべてを明かしてはくれない深いトラウマが、彼をがんじがらめにしているからだ。
おそらく、恵も気持ちは黒河と同じだ。互いに欲しているのに手を取り合えない理由は、生きている世界が違い過ぎるからでも神の教えに背くからでもなく、そのトラウマが障害となっているからなのだろう。
想いを自覚してしまった今、黒河は本当は恵が欲しい。欲しくてたまらない。
だが、有無を言わさず強引に手に入れてしまっても、それは何の解決にもならない。恵自身が傷を受け入れ、乗り越えてくれる勇気を持たなければ、本当に自由にはなれない。幸福にはしてやれないのだ。
恵からの着信を結局一度も受け取ることのなかった携帯を握り締め、黒河は嘆息する。来ないのがわかっていながら、何度も取り出して見ずにはいられない。
ブラックアウトしたディスプレイに、無邪気に笑う恵の顔が映る気がする。もうしばらく、あの笑顔を見ていない。
黒河は自嘲した。これほどまでに終日、一人の人間のことをずっと考え続けるなどと、馬鹿げたことは初めてだ。恋愛は人間を駄目にする。まるでそれは、全身を甘く酔わせる麻薬のようだ。
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