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第24話
「すみません、遅くなりまして」
恐縮した声で現れた根本は、黒河が振り向くと申し訳なさそうに首をすくめた。駅前のホテルのバーカウンター、2人の他に客はいない。
黒河が隣のスツールを示すと、根元は軽く頭を下げて身を滑り込ませる。下戸の彼が頼むのは、いつもアイスウーロンだ。
さえない黒縁の丸眼鏡が妙に似合う平凡で地味な容貌。とても元極道には見えない役場の事務員みたいなこの男は、敵の内偵にかけては凄まじく優秀だ。その印象に残らない目立たない容姿も、隠密行動に向いているらしい。興信所の開設は、彼にとってはまさに天職だろう。
「ヤツの方は大丈夫なのか」
「えぇ。坊ちゃんがおいたをしないか、常に所員を見張りにつけてます。万全ですよ」
恵の身の安全を計るために、根本には中野の監視とその身辺調査を依頼してあった。自分を拒み一人でいることを選んだ恵が、その毅然とした仮面の下でどんなに不安がっているだろうと思うと胸が引き絞られる思いがしたが、どうすることもできなかった。
「今日は炊き出しの日ですし、周りに大勢人もいるでしょうから、そうそう悪さもできないでしょう」
NPOとの炊き出しボランティアは、今日が最終日のはずだ。やけになった中野が不埒な行動に出なければいいが。
「それで? 中野については何かわかったか」
「ええ、ザッと調べてみただけで、面白いほどいろんなもんが出てきましたよ」
根本は眉を寄せると、ウーロン茶で口を湿らせてから話し始める。
「あの坊やの父親は県会議員で、NPO活動は親父さんが票取りのためにやらせてるらしいですな。末は息子に地盤を継がせようって腹らしい。ところがその馬鹿息子の裏の顔ときたら、これがひどいもんですよ。親父の力で揉み消された監禁・強姦事件がこれまでに3件。探ればもっと出てくるかもしれない。ありゃもう病気です」
黒河は舌打ちし、スコッチのダブルを煽る。とんでもないストーカーに目を付けられたものだ。
「今度何かやらかしたらさすがに親父殿のご威光も通用しないでしょうから、本人も自重しとるようですが、ああいう輩はわかりませんよ。その上世間的には慈善活動なんかやって評判がいいあたり、一番たちが悪い」
多くの悪党を見てきている根本が、したり顔で頷く。
恵が今そんな危険な男のそばにいて、劣情の視線に晒されていると思っただけで、いてもたってもいられなかった。本当はすぐにでも飛んで行って、そばにいてやりたい。
だが、土壇場になってまた迷い出す。
日の当たらない世界にドップリと頭まで浸かって生きてきた前科者の男が、清く正しい神の僕に触れる権利があるのか。その心に寄り添い傷を癒してやることなど、本当にできるのか。
突然、手の中の携帯が震えた。ディスプレイに浮かんだ名前を見て、黒河は目を疑う。
――藤代恵――
信じられない思いで通話を繋いだ。
『黒河、さん……?』
久しぶりに聞く声に胸が震えた。動揺を押し殺し、冷静に問う。
「そうだ。どうした」
『黒河さん……助けて……』
聞き取れないくらい小さな声が、確かにそう訴えた。
ザッと全身の血の気が引いた。
「どうしたんだ」
『あの……で……閉じ込め……』
雑音が混じる。聞こえない。電波の通りづらい所にいるのか。ただその声が明らかに震え、混乱していることはだけ聞き取れる。
黒河はイライラと携帯を耳に押し当てたまま、無意識に席を立った。
「おい、聞こえない。落ち着いてゆっくり話せ。今どこにいるんだ」
高鳴ってくる動悸を抑え、黒河は理性を総動員しか細い声に耳を傾ける。
『こないだ……河川敷の……倉庫……』
恵と最後に話した河岸の近くに、今はもう使われていない廃墟じみた倉庫が、夜の闇の中浮かび上がっていたのを思い出した。
「すぐ行く。大丈夫だ、心配するな。俺が行くまで……おい!」
通話が唐突に切れた。リダイヤルするが、通じない。
「何かありましたか?」
と、のん気に聞いてくる根本に、
「おまえの部下は何を見張ってたんだ!」
と怒声を投げ、黒河はそのまま店を飛び出した。
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