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第27話

†††  小暮の提出した証拠動画も役立って事情聴取はすぐに終わり、3人は解放された。しつこくからかってくる小暮と別れ、黒河は恵を美園荘まで送っていった。  途中ずっと放さなかった恵の腕を、部屋に入ってからやっと解放する。  ベッドに座らせてやると、恵はホッと息をつき全身の力を抜いた。だがその強張った表情からは、緊張がまだ解けていないことがわかる。  ベッドサイドに置かれたCDプレイヤーのスイッチを入れてやると、いつものミサ曲が静かに流れ出す。硬かった表情が、ほんの少し和らいだ。 「僕の方からあんなことを言ったのに、呼び出すなんて……本当にすみませんでした」  そう言って頭を下げたその口調は固く、いつもの藤代恵に戻っている。 「構わない。これからも、いつでも呼び出せ」  もうあの話はご破算だ、別れる気はないと暗に伝えた。  恵はハッと黒河を見返したが、すぐにまた視線を伏せてしまう。  狭い部屋の中、ゆるやかに流れるアカペラの合唱。2人の沈黙の間をしめやかに埋める。  黒河は待っている。彼が今夜、すべての秘密を打ち明けてくれることを。 「僕は……罪深くて、汚れ切っているんです」  重々しく低い声が、沈黙を破った。  到底同意できないその言葉を、誰よりも汚れない高潔な神の子羊が恥じ入るように告げる。 「物心ついたときから、同性にしか恋愛感情を持てませんでした。まだ幼い頃はそれが不自然なことだとは思っていなかったので、素直に両親に話しました。それが罪だと教えてくれたのは父です」  内心舌打ちした。一体どれほどのトラウマを、彼の父親は息子に仕込んでくれたのだろう。 「聖書には男色は罪だと書いてある。だからおまえは生まれながらの罪の子だと言って、父は僕を忌み嫌いました。外側からは一点の曇りもない彼の信仰生活の中で、僕と、僕を生んだ母だけが汚点だった。それでも、僕は信じていました。毎日かかさず聖書を読んで、奉仕や勉強をして、人の何倍も頑張ればその罪は赦されるって。すべての誘惑を退けて神の道に沿うよう努力してきたけれど……やはり父の言うとおり、罪からは逃れられなかったんです」  視線は膝の上で祈るように組まれた両手に注がれたまま動かない。その瞳は乾き切って、感情を失くし虚ろだ。 「小学校5年生のとき、教会の役員だった人に物置の整理の手伝いを頼まれついて行ったら、脅されて服を脱がされ写真を撮られました。その人は言いました。おまえが悪いんだ、おまえが私を誘惑するから、と」  憤りがこみ上げる。神聖であるはずの教会の中も、俗世とまるで同じではないか。 「そうかもしれない、と思いました。僕はエデンの園でイヴを誘惑した、蛇みたいな存在なんだって。嫌で嫌で仕方なかったけれど写真をばらまくと脅迫されて、僕はその人の言うままになっていました。でもあるとき、その現場を父にみつかって……」  恵は両手で顔を覆う。 「彼は、僕のせいにしました。僕が誘ったんだ、と。僕は違うと言いました。必死で訴えたけれど、父は信じてくれなくて……おこづかい欲しさに誘ったんだろうと頭から決め付けて責めた。おまえは生まれつき罪の子だからと言って……」 「最悪だな」  吐き気がしそうな告白に、黒河は思わず言い捨てる。もしも時間を遡れるなら、当時の恵をその最低の環境からさらって、助け出してやりたいと思わずにはいられない。 「その人は、それ以来教会には寄り付かなくなりましたが、父の僕に対する暴力はさらにひどくなりました。僕のことを汚らわしい悪魔の子、男娼と罵り、こいつは本当は誰の子だと母を責め始めた。父は表向きは、人望のある立派な牧師でした。だから僕も、父の言うことを信じていた。僕は生まれながらに罪を背負った、悪魔の子なんだと。僕のせいで母さんも責められなきゃならないんだ、と」  恵が両手から顔を上げ、壁をみつめる。目は感情を映さず空白のままだ。 「母が亡くなって実家を飛び出し、父と距離を置いてからも、自分が罪深い存在であるという意識は消えませんでした。それは、父が死んだ後も変わらなかった。僕は未だに、彼の言葉に縛り付けられているんです」 『自由になれますか』  葬儀の日、つぶやかれた言葉の謎がゆるやかに解ける。  封印されていた宝箱の中に詰め込まれていたのは、深い嘆きと悲しみだった。  キリエ・エレイソン――主よ憐れみたまえ、と部屋に祈りが満ちる。今ならわかる。それは彼の、心からの叫びだ。 「父の言ったことは、きっと正しい。僕には、他人の隠された感情を煽る何かがあるんだと思います。中野さんもそうだった。みんな、僕に惑わされてしまっただけなのかもしれない」 「馬鹿なことを言うな」  恵が他人を惹き付けるのは、その存在があまりにも聖らかで繊細だからだ。愚劣な性質を隠し持った輩は、その聖性に触発され汚してみたくなるのだろう。  表情のない目が、おもむろに黒河に向けられる。悲しげな微笑が、その口元を飾った。 「僕が十字架を負っていることを、気付いてくれたのは黒河さんだけだった。だから僕はあなたの前では肩の力を抜いて、自然でいられたんだと思います。あなたが来てくれるようになってから、毎日嬉しくて夢みたいでした。でも同時に、どんどんあなたに惹かれていってしまうことが、怖くて……。僕の邪な想いにあなたを引き入れてはいけないと思った。でないと、僕はまた罪を重ねてしまう」  膝の上でしっかり組まれた両手に力がこもる。視線は赦しを請うように再び伏せられた。 「すみませんでした。二度と会わないつもりだったのに、もしかしたら殺されるかもしれないと思ったとき、ふいにあなたの顔が浮かんで……。死ぬことなんか怖いと思ったことないのに、もう一度あなたに会いたいって……でも」  上げられた顔は、毅然とした仮面を完璧につけ直していた。 「もう、これ以上の迷惑はかけられません。これで、本当に終わりにしましょう。あなたを、僕の罪に付き合わせたくない」 「嫌だね」  遮った一言に、恵は汚れの一点もない綺麗な瞳を見開いた。 「隣に座るぞ。いいか」  いいとも悪いとも言わず不安げな目で見返していた恵は、肩の触れ合う位置に座った黒河から困惑気味に視線を逸らせた。抱き締めたときの淡い花の香りが鼻腔をくすぐり、衝動のまま性急に手を伸ばしそうになるのを耐える。  少しずつ近付ければいい。彼自身が納得し、受け入れてくれなくては意味がないのだから。

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