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第29話

 もう一度唇を合わせると、硬直していた体から力が抜け、抵抗せずしなだれかかってきた。舌で唇の合わせ目をなぞるとそれはほのかに開かれる。歯列を割ってやや強引に侵入すると、喉の奥で微かな声が漏れた。  おそらく、嫌がってはいない。手はしっかりと黒河の腕に掴まり、無意識に体を押し当ててくるのが愛しい。怯えて引っ込んだ舌を探し当て絡めると、腕を掴んでいた手が背に回された。体が密着し、恵の香りが強くなる。  相手が不安がって首を振ると少し離れ、また求め、深く貪る。高まってくる欲情を抑えきれず、清潔な白いシャツの上から恵の体の形を確認するように、指先で隈なくなぞっていく。 「や……嫌っ……」  濃密な口付けから逃れ、恵が首を振った。目元と頬はほのかなピンク色に染まり、さっきまでは押し付けていた体を、今度は離そうとしている。  急速に戻ってくる理性に、黒河は腕の力を緩めた。 「待って……黒河さん、待って……」  訴える声。体は少しだけ震えている。 「悪かった。怖かったか」 「そうじゃなく……」 「おまえが嫌ならやめるぞ。俺は待てる」 「そうじゃなくって」  もどかしげな声が、じれったそうに繰り返し、 「何か、変なんです」  と早口でつぶやくと、肩口に顔を伏せてきた。初めての刺激に感じすぎてしまうのを、恥じらっているのかもしれない。 「こんなの……やっぱり僕、おかしいんじゃないでしょうか」  泣きそうな声が、顔を伏せたあたりから漏れる。  これまでずっと己を律し、性的な欲望を必死で抑えつけてきたに違いない。それが罪なことだと信じていたからだ。 「おまえだけじゃない。みんなそうなるんだ」 「嘘です……そんなわけない」 「好きな相手と抱き合うときは、誰だってそうなる。おまえの神がそういうふうに作ったんだからな。おまえはおかしくない」  返事はなかったが否定はしない。恵は黒河の逞しい肩に小さな頭を乗っけたままじっと動かない。  黒河がおもむろに背を撫でてやっていると、じきに震えは収まってくる。 「恵……どうする?」  拒まれたらそれはそれでいい。気持ちが通じ合っているのだから、あとは時を待つだけだ。 「……知りたいです……」  微かに染めた頬を隠すように顔を伏せたまま、恵は言った。 「好きな人に触れられるとどんな気持ちになるのか、知りたいです」 「俺にも教えてくれ。本気になったのは、おまえが初めてだ」  意外そうに見上げてくる相手に微笑みかけると、その口元もほのかに笑みを刻んでくれた。恵が少し笑ってくれるだけで、すべてを手に入れた気分になる。これが恋というものかと柄にもないことを思い、悪くない甘やかな高揚感を噛み締める。 「怖かったら言え」  目元を桃色に染め微かに頷く様子がたまらなかった。身に付けている邪魔なものをすぐにでも毟り取って、その体の隅々まで貪りつくしたい衝動にかられたが、壊れやすい宝石みたいに大切にしたいという想いの方が強かった。  宥めるように背を撫でながら、シャツのボタンを一つずつはずしていく。全部はずし終えたそれを肩から落とし袖を抜かせると、寒さからか不安からか、恵は両手で自分の体を抱えた。くるむように抱き締めてやると、ホッと息をつき黒河に体を預けてくる。  熱い手で、緊張で冷たくなっている素肌に触れた。肩甲骨のあたりをなぞるようにして背をたどり、自らの体を抱いている細い腕を解かせる。恵は恥じらってか黒河の肩に顔を伏せたままでいる。  染み一つない真っ白な首筋から胸にかけて指を滑らせると、ビクリと肩が震えた。 「大丈夫だ」  声をかけると、伏せられた首がコクリと頷く。胸の先端にたどりついた指で、触れるか触れないか程度にそこを愛撫してやると、不思議そうな顔を上げてきた。なぜそんなところを触るのかという顔だ。何も知らない相手が可愛くて、上気してきた頬に口付けながら愛撫を続ける。 「ぁ……」  喉の奥で戸惑ったような微かな声が漏れる。触れている部分が少し硬くしこってきたところを見ると、感じてきたのか。  怯えさせないように床についていた両脚を抱え上げ、ベッドに仰向けに寝かせた。 「や……」  怖くなったのか伸ばしてくる両手を肩に乗せてやり、黒河はそのまま身をかがめ、鎖骨のあたりに口付ける。所有の証を残したくて軽く吸い上げると、 「んんっ」  と切なげな声が漏れた。真っ白な肌に薄紅の花びらを散らしていくごとに、恵の緊張が解けていくのを感じる。  おそらく本人の意思とは関係なしに、硬くなった胸の先端を含むと、恵は泣きそうな声を堪え身をよじった。嫌がっていないのは、肩に置かれた手が首に回されたことでわかる。舌でゆっくりと味わい軽く吸い上げ、もう片方は指先で転がすように刺激してやると、直接的な刺激に耐えられなくなったのか、か細い声で訴える。 「だ、だめです……っ、もう、やめて……黒河さ……」  本気で嫌がっていないのなら、やめない。  聞き流して空いている方の手を滑らせ、デニムパンツの上からでも形を変え始めているのがわかるその部分をなぞった。 「あぁ……」  恥じらった両目をキュッと瞑って、首を振る仕草が初々しい。もどかしい指でベルトをはずし下着ごと引き下げると、ほのかなピンク色に染まった上品な屹立が現れる。欲望を示し先端を蜜で濡らしていても、まっすぐで形のいいそれはとても聖らかなものに見えた。 「だめ……見ないで」  縮めようとする体を、少し強引に開かせた。未踏の雪原のような汚れない肌に黒河の散らした花びらが散っている。心の綺麗なものは、体までかくも美しいのか。  滑らかな白い肌に、自分の肌で直接触れてみたい衝動がつき上げた。だが、背負っている昇り龍は恵を我に返らせ、怯えさせてしまうかもしれない。  その龍こそが黒河の負ってきた十字架、一生消えることのない、傷にまみれた過去の印に他ならなかった。  黒河の一瞬の躊躇に気付いたのだろう。恵は恥ずかしがって閉じていた瞳を開き、問いかけるように見上げてきた。 「恵」  見返してくる目はどこまでも聖らかだ。底まで透き通った湖のように美しい。 「おまえを受け止めてやる。だから、俺のことも受け止めてくれるか」  ふっと、形のいい口元に微笑が刻まれ、頷くと両手が差し伸べられた。  抱き起こしキスを落としながら、自分の身に着けているものを脱ぎ捨てていく。うっとりと半分閉じられていた瞳が、肩にまでかかった鮮やかな青龍の鱗を見てはっきりと開かれる。 「……見せて……」  体を起こし、背中を見たがる恵から身を離す。 「よせ。おまえはこんなもの、見なくていい」  恥に思うわけではない。後悔もしていない。背負った獣も明らかに自分の一部、生きてきた証だ。否定するつもりはない。  だが、あまりにも住む世界の違う恵がそれを見てどういう反応をするのか、それがただ怖かった。 「もう、何も隠さないで」  細い指が肩にかかった鮮やかな色に触れる。 「僕にも、受け止めさせて。もっと、あなたに近付きたい」  迷いのない綺麗な瞳。触れる温かい指先。  思えばずっと一人だった。それを寂しいなどと感じたことはなかったし、常に危険の中に身を置いていることにも慣れていた。  だが、もう終わりにしていいのだろうか。これまでとはまったく違う新たな人生を、また一から始めることが許されるのだろうか。  憐れみたまえ、と天に向かって叫んでいたのは、彼だけではなかったのかもしれない。もしかしたら自分も、届かないと諦めながらも求めていたのかもしれない。  大いなる救いを。  向けた背中に描かれた首をもたげ威嚇する昇り龍の刺青を、細い指がなぞる感触が伝わる。恵の指は愛おしむように、丹念にその輪郭をたどっていく。 「痛かった……?」  問う声は怯えているどころか、黒河の傷を心配する響きがあった。その一言が単に刺青を刻んだときの痛みではなく、その龍を負うことで被った数々の心の傷をも案じてくれている気がして、黒河の胸はゆるやかに癒される。 「それほどでもない」  平静を装って言ったつもりだったが、触れてくる指先には動揺が伝わってしまっただろうか。 「いくら触っても消せないぞ」  何度も何度もいたわるように背をなぞる恵に告げると、指が止まった。 「消したいんじゃなくて、確かめたいだけ。消えないでいい。だって、これがあるから、あなたなんだから」  ぬくもりが、乾いた背を包む。 「これも全部含めて、黒河さんなんだから」  背中から胸に回された細い腕を掴んで、強引に体をひねり胸に抱きこんだ。もう、止まらなかった。

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